2016年5月13日金曜日

中国文明史 ~周~

十八史略としては、酒池肉林に溺れる殷の紂王を周の武王が征伐する形で爽快なエピソードとして残されています。史実なのがすごいですよね。紂王を諌めた比干、武王の弟の周公旦や太公望呂尚など中々今でも人気の歴史的人物が出ております。コラムで多少楽しめますが、こちらは文化中心の資料なので淡々と書かれていますね。

【周】B.C.1050年頃~B.C.771年(東に追われた東周に対し西周とも)

<特徴>
・夏王朝の遺民で農耕民族であり、次第に政治同盟を組織し殷を討った。
・洛陽より西側の西安に都を置き、洛陽も副都として機能。
・身分に応じた厳しい礼制を確立した王朝
・占いを常とする神権政治の色彩は徐々に薄らいでいった。
分封制とそれを補完する宗法制(相続法)制度で秩序維持。
・分封制がのちに春秋時代の覇権争いを引き起こす遠因
・天子→諸侯→卿・大夫→上士→下士など階級細分化。
・軍隊は三軍陣形。1師団が三千人からなる制度で常備軍を持っていた。
・タカラ貝を貨幣代わりに使用。
・青銅器は頻繁に、後半に鉄器も登場。
・陶器から原始磁器への発展。
・住居は瓦屋根が一般的となる。

殷のところでは文字が文明継続の原因と述べましたが、著者はそれと合わせてこの周の時代の礼制の確立もまたその原因と述べています。細かな社会等級制度こそが周を王朝たらしめた基礎だったのでしょう。誰もが知る、その後の春秋戦国時代の原因は、このときの分封制が仇となっていると言われますが、増えていく一方の同族を配置するのは難しいですね。この時のことにならって一族を冷遇したことで知られる三国志の曹氏ですが、これまた司馬氏に政権を取られますし。司馬氏はまた「八王の乱」で周と同じ轍を踏みました。難しいです。晋国は天子と同姓の諸侯国ながら、礼制をそのまま系統せず、他の民族と融合を計り、異なる文化圏をつくっていたことが、後の時代に覇権をとなえる因となったという部分に少し解が見えてきそうな気もしています。

それはそうと、殷の紂王を周の武王が倒すところは、日蓮大聖人の御書にも出てきて痛快な箇所です。

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殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ
日蓮大聖人御書全集 異体同心事 1463ページ
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八百人とは諸侯の数であり、実際はもっといたでしょうが、いかに民心が殷から離れ、周の政治連盟が功を制していたかがわかります。


<2016.6.4追記>
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例せば周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ
日蓮大聖人御書全集 善無畏三蔵抄 884ページ

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天感とは諸天を動かす機運のようなもの。師匠のあるものは強いということ。

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