呉は現在の蘇州周辺を支配し、6代王の闔閭の時に二人の名臣、
・伍員(伍子胥)
・孫武(孫子)
を得て強大国・楚を滅亡寸前まで追い込み覇を唱えた国である。
本に紹介されているもう一人は、闔閭の叔父にあたる
・季札(延陵の季子)
である。
実に呉も他国に劣らず権謀術数が多く、ここでのエピソードも従来は楚に仕えた一族で、父と兄を楚王に殺されたために復讐を誓い、呉に亡命した伍子胥の物語が中心である。孫子の兵法として今なお知られている孫武の方は、名が上げられるわりには伍子胥が推薦した人という程度で物語性は少ない。伍子胥は痛快に復讐を果たすのであるが、既に死んでいた楚王の墓を暴いて屍に鞭を討ったとあるから酷です。
やはり、怨みに対し怨みを以て対処すれば、業を積むらしく、闔閭の子の夫差からは越を滅ぼすための献言も受け入れられず、自殺に追い込まれます。夫差はこの時のことが仇となり、反って越に滅亡させられる君主です。
この三人の中で一番有名とは言えないのが季札ですが、軍配は彼に上がりそうです。名君だった父から、兄弟の順を越えて王になるのを進められた程の知識人ですが、節義を守り固辞し続けて、最終的には甥にあたる闔閭が兄弟から王権奪取したことも認め、長寿を全うしました。この時代に謙譲の心こそ命を保つには必要だったのかもしれません。
「菜根譚」にもこういう条文があります。
径路ノ窄キ処ハ、一歩ヲ留メテ歩ヲ人ニ与ヘテ行カシム。
まさに季札の取った行動です。伍子胥は有名ではありますが、無くなる直前の内心は穏やかではなかったでしょう。かつて紹介した「菜根譚」のこの条文を送りたいです。
第70条
喜神(喜ぶ心や感謝する心)を養い、福をまねくのみ。
殺機(人を害そうとする心)を除いて、禍を避けるのみ。
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