2016年5月27日金曜日

中国文明史余話 ~戦国の中山編~

もう一つ。戦国期B.C.414年に興り、B.C.296年に滅んだ強国を記録しておきます。その名は中山国で、魏・趙・斉・燕と接する北方にありました。北方民族である鮮虞族が北方を犯して立てた国です。

「中国文明史」も「戦国名臣列伝」もこの国を軽視できないようですのでここに記します。一時期、魏からの支配を受け、中原文化を吸収し、青銅器文化を発達させた国でした。

以下、楽毅の出身が中山との著者の説から、「戦国名臣列伝」に詳しくこの国のことが書かれています。

*************************

中山の君主が王を称えたのは、宋王より早く、紀元前313年のことで、宋王とちがうのは、それが自称ではなく、他国の王に承認されたということである。それゆえ中山の朝廷は王朝となり、その王朝は中山国が滅亡する紀元前296年までつづいた。
とはいえ二十七年間の王朝はいかにも短い。それゆえ百年後には、中山は伝説の国となり、千年後には、幻の王国、となった。
だが、中山国はまぎれもなく存在した。一九七四年に考古学調査が中山王陵でおこなわれて、一九七八年までに三十余基の墓や都城遺跡があきらかにされた。

(中略)

が、皮肉なことに、中山の君主が王を称えたことが中山国の滅亡の遠因になった。
すなわち、中山君が王を称えることにかねて難色をしめしていた斉王が、自身が出席しない諸侯会同において中山君の称王が許されたことを知り、

―――不愉快である。

(中略)

中山王と斉王が慢心の上にいたことはたしかであろう。慢心は知恵を涸らし、人を去らせる。

(中略)

中山王の尚は膚施へ移され、平民となった。

*************************



先に楽毅のところで紹介した「五尽」を中山は具えてしまい滅んだのでした。

慢心を起こした組織が崩壊するのは早いですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿