2016年5月13日金曜日

無産(※)階級の会議について

※無産とは資産がないではなく、ここでは何も産み出さないの意

先日、吉川英治氏著の「黒田如水」を紹介しましたが、その際の論点とはずれていたので紹介しませんでした。
しかし、これはすごいなと思う箇所が冒頭付近にあります。吉川英治氏も随分と不毛な会議に参加されたことがあるのだろうと感慨深くなりました。我が職場は当然として・・・

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「全国、どこの城にも、かならず評定の間というものはある。けれどもその評定の間から真の大策らしい大策が生れた例は甚だ少ないようだ。多くは形式にながれ、多くは理論にあそび、さもなければ心にもない議決におよそ雷同して、まずこの辺という頃合いを取って散会を告げる。
三人寄れば文殊の知というが、それは少なくとも一と一とが寄った場合のことで、零と零との会合は百人集まっても零に過ぎない。時代の行くての見えない眼ばかりがたとえ千人寄ってみたところで次の時代を見とおすことは出来ないが、評議となって列座すれば、誰ひとりとして、
(それがしは、めくらである)
と、いう顔はしていない。
そのくせ信念もなければ格別の達見も持っては居ないので、ただ自己をつくろうに詭弁と口舌の才を以てすることになる。従って、評議は物々しくばかりなって、徒らに縺れ、徒らに横道に入り、またいたずらに末梢的にのみ走って、結局、何回評議をかさねても、衆から一の真も生れず、そしていつまでも埒はあかないという所に陥ちてしまうのだった。

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さらに、会議に参加している人種が無産階級(私利私欲を貪る上層部)になると、古代ギリシャのソフィストのようになる。

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「ソフィストにとっては、何が真実であるかも、そして、何が人間の人生や幸福にとって大事かも関係なかった。ともかく、博学を装い、白も黒と言いくるめて、相手を打ち負かし、自分の主張が正しいと信じ込ませることが狙いとなっていた。」
新・人間革命6巻 遠路の章より
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ソフィストたちが集まった会議はたまらないですよ。どうでもよい部分は白熱し、重要な部分は弁舌でさっと流し、あたかも博識ぶっていますから。知っていて知らないふりをする。正しい結果も不完全なところをあげつらって不正とする。自分の責任のところだけは、急に謙って逃れようと必死です。昔からそうだったのかと思えば、少し心も落ち着きを取り戻せそうですね。

しかし、厳に戒めないといけません!


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