2016年5月9日月曜日

「新・人間革命」4巻 春嵐の章

アジア広布への道標を打ち立てて、間髪入れず各地の支部結成大会に臨む伸一。信心を阻もうとする魔の働きが「村八分」となって各地を嵐のごとくおそう。でも、それは過ぎ去ってしまえば、一瞬にすぎなかった。咲き香る花を妬むかのごとく。



支部結成大会の合間に行われた教学試験について、先生の見解が示されている。

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学会の試験は日蓮大聖人の大生命哲理を、生涯、研鑽していくための、一つの目安、励みとして実施されるものであります。したがって、試験に合格しても、慢心を起こして、周囲の同志を見下すようになれば、信心の不合格者となってしまいます。仮に、試験には、受からないとしても、それを契機に奮起し教学に励み、信心の合格者となっていけばいいんです。むしろ、それが大事なんです。そして、御書を心肝に染めて、どのような難が競い起ころうが、微動だにしない、強い、強い信心を確立していっていただきたいのであります

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時代、社会の建設は、民衆が確固たる生命の哲学をもち、自己の使命を自覚していくことから始まる。それは、まさに、民衆の未聞の哲学運動であり、大教育運動であった。

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民衆の手に哲学を取り戻さねば。哲学を。

日本人の哲学のなさについて、これは現在の精神の頽廃を招いた原因とも考えられます。

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民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。一人ひとりの「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属を免れない
さらに、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体や家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなりえなかった。

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現在の日本の宗教観について、上のような状態になってしまったのは、江戸時代に徳川幕府が作り上げた『寺檀制度』にあるようですね。堕落は既に大聖人の時代から始まっていましたが、この頃になると形骸化も極まり、葬式仏教や支配体制(特権を与えて権力に迎合する坊主が信徒を支配する)のための宗教に堕してしまいました。






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