2016年7月1日金曜日

本日から休診

しばらく休診いたします。

再開は楽毅の最終章に合わせ「反転攻勢」がテーマです。

まず今は雌伏のときと定め、静養に精を出そうと。

2016年6月27日月曜日

中国歴史小説 ~楽毅③~

ちょっとずつ、ちょっとずつと思いながらも重なれば一巻。第三巻も楽毅は「燕」に入らずにしまいました。全四巻のうち前三巻は「趙」の歴史が分かりやすく書かれているといったほうがいいですね。宮城谷昌光氏「孟夏の太陽」というタイトルで「趙」の始祖のことも小説に書いており、格別「趙」びいきであるようです。これを読んでいると戦国前期は「魏」が強く、中期は「秦」と「斉」の二強とまとめられていた歴史が、「趙」にも天下統一とはいかないまでも北半分を版図にする勢いがあったことがわかります。武霊王の知略と武略によるところが大きいですが、その後の恵文王も別の角度から国を富ませました。ただし、この引継ぎが、武霊王を餓死に追いやってという暗さが残ります。それが、第三巻の見どころです。

大胆にして細心の武霊王は賢人といえそうですが、なぜか名君になれなかったのは細心の部分が狡猾であったからだと感じました。細心はどこまでも真心でありたいものです。


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中山国はこの世から消え去るのか――。隣国趙と成立した講和は一方的に破棄され、趙の苛烈な侵攻は再開した。中山国の邑は次々に落ち、そのさなか中山国王も没した。そして首都の霊寿もついに陥落する。東西の辺土を残すのみとなった祖国の存続をかけ、楽毅は機略を胸に秘め、戦火の消えぬ中山を離れ、燕へと向かった。抗い難い時代の奔流のなか、楽毅はなにを遺そうとしたのか。

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大切と思われた箇所、

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世論にも歴史にも、勢いとながれがある。それをみきわめただけでは故事を学んだことを活かしきったとはいえない。勢いとながれを自分でつくりだしてこそ、学んだことを活かしたといえるのである。ただし、それができるのは、万人にひとりか。

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まえをみずぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみずぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。目的がなければ努力をしつづけにくい。が、人が目的をうしなったときに、目的をつくるというのが、才能というものではないか。平穏無事を多数とともに満喫しているようでは、急変の際に対応できず、人の生命と財産を守りぬけず、輿望をあつめることはできない。

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不遇や閑時にこそ勉学をと歴史は教えてくれています。晴耕雨読。今日も雨降る、本を読む。何時か反動を利用して勢いをつけるべく。

2016年6月24日金曜日

中国歴史小説 ~楽毅②~

落ち着いて読書のできない日が続いていますが、歴史的偉人は必ず読書家であることに鑑み、地道に続けます。楽毅もまた、不遇のときこそ読書をしたようです。

第二巻はいよいよ武霊王が中山国を計画的に滅ぼしにかかります。最終章に近いところで初めて「燕」に援助を頼むという話が出始め、史実である、「燕」の楽毅が「斉」を攻めるという構図に近づきます。「中山国」の宰相だったというのは宮城谷氏のフィクションと思われ(確か戦国名臣列伝で中山出身と思いたいと書かれていた)、ここで示したかったのは、中山を例にして、「ほろび」の国がどのような状態であるかということだったのでしょう。これは現在の会社等にもあてはめられるのではないでしょうか。

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祖国中山は自分にとって小さすぎるのか――。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。趙の侵略はとどまるところを知らず、戦火が絶えない。が、祖国の君臣は方策を講じず、内外で声望の高まる楽毅を疎んじ続けた。苦難の戦いを強いられた楽毅はどこに活路を見出し、いかに理想の自己を貫いたか。

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第二巻は、「ほろび」の哲学色が濃いところ、

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疑いながら事をはじめれば成功せず、疑いながら事をおこなえば名誉を得られない。君主の迷いは臣下の迷いとなり、ひいては国民の迷いとなる。

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勇と智をあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときよりも、なにもなさないときに、その良質をあらわすからです

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なにもしないとみせて、なにかをする。なにかをするとみせて、なにもしない。敵に虚実をさとらせないのは、孫子の兵法ではありますまいか

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復讐は相手を滅ぼすと同時に自分をも滅ぼすという因果の力をもっている

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白を黒であるといいくるめる術には信義が欠けている。あえていえば、そこには人の心がない。

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天与の幸を享ける者は希にしかおらず、その人に付すことによって幸をわけてもらうというのが幸運とよばれているものである。

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勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです

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天下の才は、天下のために使うべきであり、それが天意というものであろう。ひとりの人物が天業のために不可欠であるのなら、かならずその人物に天啓というものがある。その天啓をさまたげようとする者は、天の怒りを買い、天譴をくだされる

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君主とは孤独に生きる人をいう。孤独に身を置かなければ、群臣と国民とが納得する聴政をおこなえるはずがない。

(中略)

好悪があきらかであることは、正直であるというより、精神の幼さを意味している。あるいは人としての弱さもそこにあり、自立するという真の意義を理解していない。中山王は孤独に耐えられないからこそ、国を孤立化させている、ともいえる。孤独をつらぬくには勇気が要る。まったく援助を得られない立場に身を置いてみて、はじめて自己と他者というものがわかる。自分で考え、自分で決断し、自分で実行する。これほど勇気を必要とすることはない。

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こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深いということだ。人が戦うということは、おのれと戦うということであり、勝つということは、おのれに剋つということにほかならない。

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歴史を知ることによって、自分のむこうにある自分がみえてくる。

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歴史を知らぬ、偽善を行ってきた中山は滅ぶべくして滅ぶのだと。

2016年6月20日月曜日

中国歴史小説 ~楽毅①~

中国文明史は「漢」までいきましたが、歴史小説は「春秋戦国」や「楚漢戦争」において豊富です。読んでみたいと思っていた春秋戦国時代の人物、「子産」「楽毅」「楽喜」の三人のうち、前二人は宮城谷昌光氏が小説を書いてくれていることが判明し、一読しようと決心。省エネモードながら、少しずつ読み進めたいと思います。




一巻の概略は、外交を怠る慢心の中山国を、趙の武霊王が巧妙に侵略するのを、太子に光明を見いだした楽毅が巧みに防ぐところ、

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古代中国の戦国期、「戦国七雄」にも数えられぬ小国、中山国宰相の嫡子として生まれた楽毅は栄華を誇る大国・斉の都で己に問う。人が見事に生きるとは、どういうことかと。諸子百家の気風に魅せられ、斉の都に学んだ青年を祖国で待ち受けていたのは、国家存立を脅かす愚昧な君主による危うい舵取りと、隣国・趙の執拗な侵略だった。才知と矜持をかけ、若き楽毅は祖国の救済を模索する。

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抜粋箇所は主に田文(孟嘗君)の人柄についての部分が多い。

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独りで生きることはさびしい。自分のさびしさを視、自分のさびしさを聴いたにすぎぬ

(中略)

そのさびしさのむこうに、人の真影がある

(中略)

人の偉さというのは、孤独の深さにかかわりがある

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孟嘗君はたびたび自領を捨て、個として天下を闊歩した。
――ほろびのわかっている人のありようは、あれよ。
それゆえに孟嘗君は不朽なのではないか。

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薛公に会って以来、つねに自分にいいきかせていることは、おのれへのこだわりを棄てよ、ということである。

(中略)

無欲を衒う者は名誉欲にとらわれるという坎穽にはまりこむものであるが、薛公にはそれもない。

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かれの考えていることに根拠はない。すべてを感覚がおしえている。感じた通りに行動したにすぎない。したがってなぜそうなのかは説明できない。
――いのちにかかわるときは、おのれのままに動いたほうがよい。

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――人とはふしぎなものだ。
身分とは違うところで、人の格差がある。人がつくった身分ならこわすことも、のりこえることもできようが、天がつくったような差はいかんともしがたい。

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成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえをはじめるものである。

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信義などというものを枯葉のごとくふるい落とす戦乱の世に、信義を立てて生きている薛公は奇蹟の人といってよいであろう。

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自分の近いところにおよぼす愛が仁であれば、遠いところにおよぼす愛が義である。

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知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。

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軽蔑のなかには発見はない

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目には呪力がある。

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目くばりは自分にもおこなわなければならない。それが内省というものである。人は神ではない。万能でなく、人格も完璧ではない。むしろ欠点のほうが多い。その認識から発して、徳望の高みに一歩ずつのぼってゆく努力をしなければならない。

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この世で、自分で自分がわかっている人はほとんどおらず、自分がいったい何であるのか、わからせてくれる人にめぐりあい、その人とともに生きたいと希っているのかもしれない。

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2016年6月19日日曜日

仏法と歴史 ~宮本武蔵編~

昨日の「聖教新聞」には、先生の随筆が掲載され、宮本武蔵が紹介されました。

今までだったら、ここで紹介されている『五輪書』や、吉川英治氏『宮本武蔵』も読んだかもしれませんが、今は省エネモードに入っています。紹介だけにして、後日追加していけたらいいですね。

巌流島にはいったことあるのです。その時に歴史に触れたイメージは、決闘時間をずらして佐々木小次郎の気を削ぎ、討ち果たしたイメージしかなかったのですが、やはり精神面を含めて、剣術を極めた天才だったということでしょう。


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無双の剣豪・宮本武蔵は、晩年を九州・熊本の地で過ごし、独自の兵法観と思想を集大成した『五輪書』をまとめた。
そこに「生国播磨」――今の兵庫出身と記した彼は、生涯で六十数回にわたって勝負をして一度も負けなかったという。
なぜ、強かったのか。
武蔵は自身の剣術について、「水を本として、心を水になすなり」と譬えた。水は形を自由に変える。この水の如く、自分を自在に変えることができたから強かったというのである。さらに実際の太刀の使い方や構えにも、固定的な型はないと述べている。
千差万別の相手に、自在に対処していくのだ。
決して過去の成功にとらわれず、電光石火で対応を変化させる。これこそ武蔵の必勝の哲学だ。
『五輪書』は、「一人の敵に自由に勝つときは、世界の人にみな勝つところなり」と論じてもいる。
我らが真剣勝負の対話で、一人の心をつかむことは、万人の心をつかむことにも通じよう。
大聖人は、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」と明言なされた。「断じて勝つ」との強き一念で御本尊に祈り、勇敢に一歩を踏み出せば、世雄たる仏の隨縁真如の智は、いくらでも湧いてくるのだ。

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「新・人間革命」14巻 智勇の章

権威主義などに対抗して大学は学生運動の渦中であった。過激化していく現状を憂え、伸一は「第三の道」を提案。また、教育については政治から切り離された「四権分立」であるべきであると主張し、大学の自治を奪う「大学立法」に対しては、自ら学生らと共にデモの先頭にも立った。学生部員は「第三の道」を目指し新学生同盟(新学同)を結成した。


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常に新しき決意で、広宣流布に敢然と勇み立つことこそが、創価の大精神である。その時、地涌の菩薩の大生命が脈動し、自身の境涯革命がなされていくのだ。そして、そこに、わが人生の栄光と大勝の道が開かれるのである。

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いかにして平和を守るか。これこそ、現代の人類が担った、最大の課題であります。

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二十一世紀は、「国益」の追及から「人類益」の追及へ、「分断」から「融合」へ、「戦争」から「平和」へと向かわねばならぬ時代である。大学も、国家のために働く人間から、人類の幸福と世界の平和・繁栄のために働く人間の育成へと、変わるべき時を迎えているといえよう。人材像もまた、単に知識や技術の吸収にとどまらず、人類の幸福を実現する高い理念と、優れた人格をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間へと変化していかねばならない。そして、そうした人材を育むには、大学に、精神の基盤となる、確たる教育理念が求められる。

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学生時代は革命を口にしながらも、就職してサラリーマンになれば、企業の論理に従わざるをえない。そうなれば、人間を抑圧する側の、歯車の一つになりかねないと思っていた。そのなかで、いかにして革命を理想を貫けばよいのかというのが、多くの学生部員の悩みであったといってよい。

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権力をもつ者のエゴを、さらに、自己の内なるエゴを、どう乗り越えるかということではないかと思う。つまり、求められているのは、権力の魔性、人間の魔性に打ち勝つ、確かなる道です

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結論を言えば、一人の人間の生命を変革する折伏に励むことこそが、漸進的で、最も確実な無血革命になるんです。さらに、生涯を広宣流布のために生き抜くことこそが、真の革命児の生き方です。また、君自身が社会のなかで力をつけ、信頼を勝ち得ていくことが、折伏になります。

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管理の強化によって紛争の解決を図るというのでは、大学問題の本質から目をそらし、ますます病根を深くすることになりかねない。

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どんな気構えをもっていようが、声をあげるべき時にあげなければ、眠っているに等しい。言論戦とは、まさに、「時」を見極める戦いであり、また、時間との勝負でもある。

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宗教は人格を陶冶し、陶冶された人格は、他者への同苦の心をもつ。そして、不幸や矛盾、不平等をなくそうと、社会的使命を自覚するに至る。

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“苦悩に打ちひしがれた一個の人間の胸中に、希望と勇気の火をともすことから、人間解放の戦いは始まる。そして、人びとが生きる力を得て、変革の主体者として立つ時、社会は一変する!”

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どんな高邁な主義主張も、人間性が伴わなければ、必ず破綻をきたすことになる。本来、主義とは、自分の生き方であり、人間性の帰結であるからだ。ゆえに、いかなる理想を説き、いかに立派な言辞を連ねようが、人間性の革命がなければ、その主義が真に実現されることはない。

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社会革命のためには、日蓮大聖人の仏法による人間の心の根底からの立て直し、つまり、表現こそ違うが、「人間革命」しかないというのが、創価の父・牧口の、一貫した考えであった。

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日蓮大聖人は、末法の一切衆生のために、大宇宙の根源の法たる「仏」の大生命を、御本尊として御図顕になられた。この御本尊を信受し、一切衆生の救済を、わが使命として生き抜くなかにこそ、自身の「仏」の生命を開く唯一の道があるのだ――。

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相互不信であった現状を、信頼を勝ち取る方向へ、我が人間革命によって舵をきらなければならない。迂遠にも思える一人の折伏もって。生涯の友となる有為な人材に出会えますように。

「折伏に精進するならば、魔の侵すところとはならない。決して天魔鬼神に侵されることのない平和な生活ができる」(師弟の大城114ページ)のだ。

2016年6月18日土曜日

憔悴から逃れられない時は・・・

「憔悴」その言葉がぴったりくるような日々。自分の中で確信と懐疑のせめぎ合い。とにかくも無明の怖さを知る。平常心とは、そう簡単に手に入るものではないのですね。



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しかし此の世の善だの悪だの

容易に人間に分りはせぬ


人間に分らない無数の理由が

あれをもこれをも支配してゐるのだ


山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく

つぐむでゐれば愉しいだけだ


汽車からみえる 山も 草も

空も 川も みんなみんな


やがては全体の調和に溶けて

空に昇って 虹となるのだらうとおもふ・・・・・・


さてどうすれば利するだらうか、とか

どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと


要するに人を相手の思惑に

明けくれすぐす、世の人々よ、


僕はあなたがたの心も尤もと感じ

一生懸命郷に従つてもみたのだが


今日はまた自分に帰るのだ

ひつぱつたゴムを手離したやうに


さうしてこの怠惰の窓の中から

扇のかたちに食指をひろげ


青空を喫ふ 閑を嚥む

蛙さながら水に泛んで


夜は夜とて星をみる

あゝ 空の奥、空の奥。



しかし またかうした僕の状態がつづき、

僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、

自分の生存をしんきくさく感じ、

ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。


そして理屈はいつでもはつきりしてゐるのに

気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。

それがばかげてゐるにしても、その二つつ

僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。


中原中也全詩集 「憔悴」より
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2016年6月16日木曜日

中国文明史 ~漢~

楚漢戦争を経て劉邦高祖として初代皇帝となった漢。A.D.8年に一時的に王莽によって新という国を建てられ簒奪にあいますが、すぐに劉秀(光武帝)によって奪還。この簒奪以前を前漢、以後を後漢として400年続く漢帝国として扱っています。イメージが少し違うでしょうが、三国志の曹操が亡くなるころまでは漢帝国が存続し、ここに含まれるのです。


【漢】B.C.202年~(A.D.8)~A.D.220年

<特徴>
・当初は開国の功臣である異姓の者を諸侯王に報じて広大な地域を治めさせたが、周がそうであったように、禍の種となりつつあったため、同姓の諸侯王に据え替えた。
・その後も同姓の諸侯王の勢力が増し、割拠の恐れがあったが、武帝がその勢力を削ぎ、細分化することで、80年以上にわたって皇室を脅かした諸侯割拠の事態は回避された。
高祖の妻であった呂氏の専横により一時的に呂氏一族に王朝を乗っ取られる事態が発生。
文帝武帝と賢帝が続き、一時的な危機を見事に乗り切り威信を回復。
武帝の時代の拡大は特に目覚ましく、宿敵であった匈奴を分裂させ、南匈奴を属国にし、西に西域都護府をおいて、シルクロードを開通させた。
・辺境には移民を住まわせ、屯田兵を置き耕地を拡大。
・西域は36の国に分かれ、烏孫大月氏が最大規模。同盟ならずも西域文化は多く流入。
軍事的脅威は長城より北の匈奴のみ。南は百越、西南夷がいたが、属国的。
・戦場が北に限定され、戦争は戦車が衰退し、騎馬が重要された。
牛耕技術の普及。
鉄器の普及と青銅器の衰退(礼器としての使用に限定)。
紙や司南(方位磁石)の発明。
・宮廷音楽が俗楽を取り入れて作新。
私有地を荘園にして勢力を拡大した地方豪族がやがて亡国の因。
仏教が西域より伝来し、儒教、道教も加えて三つ巴の論争が始まった。




ここでは、やはり仏教伝来に注目したいですね。記録的にはA.D.67年と。

『仏教が中国に伝わった当初、その教義は儒学・道教とは大きな違いがありました。とくに、家と国家に対する観念のちがいがもっとも大きく、

仏教は家を捨て国を離れ、人倫関係の垣根をうち破ることを主張することで、この世の苦難を超越することを求めました。

儒学は家を平穏にし国を治めることを求め、忠と孝を基本道徳としました。

道教は個人が救済されて仙人となることを説きましたが、忠と孝を修行の戒律としていました。

したがって、後漢末に仏教は新しい思潮として社会でめざましく活動し、中国の伝統的な道徳観念に挑戦しました。』

ううん。仏教といってもまだまだ創価学会の思想からは程遠い気がします。小乗から大乗への流れの渦中だったのでしょう。




2016年6月15日水曜日

仏法と歴史 ~陳勝・呉広編~

さすがに、退職するというのはエネルギーがいりますね。

前例のない制度を使って、とうとう打って出てしまいました。もう戻れません。臆病な心が襲いますが、そこは信心の出番。唱題で臆病に勝ってこそ、仏の生命は湧現する。

なにより「先駆け」の使命感です。戦国時代なら生きるか死ぬかですからね。今はやはり文明が進んでいると言えるでしょう。明るい方へ。明るい方へ。

どのみち、このままいくと数年後には希望退職者を続々出すことになるでしょうし。



丁度、今読んでいる中国文明史「秦漢」のところになり、項羽と劉邦の楚漢戦争はごくあっさりと素通りなのですが、捨てて置けません。

「春秋戦国」についても、何遍となく余話として脱線してきましたが、この時代もきっちり清算しないとですね。陳勝と呉広は秦を滅ぼすきっかけの反乱を起こした先駆け的人物で、そのまま「陳勝呉広」で先駆けの意味のことわざになっています。この乱に呼応して次々と反乱者が立ち、最終的に項羽と劉邦に絞られ、劉邦が漢を建国するのです。


ここは、池田先生のスピーチを紹介することによって、中国文明史余話としてではなく、仏法と歴史の観点からご紹介したいと思います。


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作家で歴史にも造詣の深い陳舜臣氏『小説十八史略』からも参考に引かせていただくことにする。
はじめに秦帝国の末期、最初に反乱の先端を開いた陳勝にふれておきたい。
彼は若いころ、しがない雇われ農夫であった。あるとき、彼は将来の夢を語って仲間にあざ笑われた。そのとき彼は「嗚呼、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」と大きくため息をついたという。
ツバメやスズメのような小鳥には、オオトリやハクチョウのような大鳥の志がわかるはずがない。小人物に、自分を超えた器量の人物の大志大望が、どうして理解できようか――との嘆きである。これは本来『荘子』にある話だが、陳勝のことばによって有名になった。
私どもの目的である広宣流布は、最高の「大志」である。その遠大なる志、純粋にして壮大なる目的観と心意気は、社会の人々には、なかなかわからないであろう。まして濁世にあって、目前の利己的欲望や、既成概念にみずからの目を覆われてしまった人々には、想像すらできないにちがいない。ゆえに諸君は、すべてを悠々と達観しながら、大いなる「鴻鵠の志」を、使命の人生の大空に広げていっていただきたい。

陳勝はやがて農民反乱(陳勝・呉広の乱)の指導者として立ち上がった。そのとき、九百人の農民を前にして行った名演説は有名である。
「王侯将相寧んぞ種有らんや」――王侯、将軍、宰相といっても、生まれつきそうなる人種が決まっているわけではない。皆、同じ人間ではないか。だれでもなれるのだ。われわれも、そうなってみようではないか。陳勝の人間としての捨て身の叫びは、聴衆の心を見事にとらえた。

1987年11月2日 第9回創価班総会にて池田先生の指導より
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たった二つの成語であるが、彼らは歴史に名を遺したのです。結局、陳勝は一度は王を名乗りながらも、秦軍の反撃や内部分裂によって滅び、歴史の舞台からは姿をけすのですが。

王になることで欲望が満たされたともいえるし、やはり際限のないものを志の頂点にする末路は、内部分裂ではないでしょうか。仏法でも「師子身中の虫師子を食む」とあるように敵はいつでも内部です。

さあ、自分も心をいれかえて、体調管理をしっかりしつつも、大志に向かって勉強を続けよう。

2016年6月9日木曜日

中国文明史 ~秦~

いよいよ秦がB.C.230年から221年の約10年の間に、総数200万を誇る強力な軍隊を東進させ、各国を併呑していきました。戦いによる死者数は万人規模で、例えば、B.C.260年の趙との戦いで40万人の首を捕ったとあるくらい大規模な戦争でした。

始皇帝の権力は絶大で、基本的な制度は、以後2000年にわたり中国の歴史を流れる骨格を形成しましたが、伝えるべき人物を誤ったため、秦という国自体はたった15年の命脈しかありませんでした。


【秦】B.C.221年~B.C.206年

<特徴>
中央集権的な郡県制(48郡)が全国に敷かれた。
・9度にわたり遷都。統一後を含め最終的には咸陽に落ち着いた。
皇帝制度、三公九卿などの官吏制度を設け、血縁は軽視した。
戦争を重視し、軍功によって爵位(20等級)が与えられ、皇族以上の出世が叶う時代。
・軍功によって成り上がった軍功地主の政治が残虐で、最終的には亡国の因。
・各国にあった都市防衛の城壁はなくし、北に匈奴に備えた長城を建設。
(趙と燕にあったものに追加した)
国民皆兵の軍政。
・咸陽を中心として幹線道路、巨大用水路()を建設。
度量衡、車軌、貨幣、文字の統一を進めた。
・焚書坑儒
・武威を示すため5度にわたり始皇帝巡幸。5回目の途中で死亡。
・あらゆる体制を短期間によく整備したものの、趙高という悪名高い臣下に
 後事を託したため、二世の代で滅ぶ。





「新・人間革命」13巻 楽土の章★

1969年、建設の年の開幕。2月、伸一の胸には、沖縄の楽土建設への闘魂が、照りつける太陽にも増して燃え盛っていた。会う予定のなかった地域の人びととも劇的な出会いを刻んでいく。駐留米軍のアメリカ人の学会員の面倒を見て、そこから世界広布が広がっていった話や、我が子を火事でなくしながら、それでも広布に懸命に走った人びとのドラマが綴られる。



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真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一念にこそかかっている。人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避に走れば、社会は頽廃する。
楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。複雑な現実の迷路を切り開く、聡明な知恵を働かせることだ。そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。御聖訓には、「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せである。

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広布に献身しゆく同志に、仏を見ずしては仏はない

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恒久平和の実現は、最も困難なテーマです。聡明な、力ある英知の指導者が、続々と育たなければならない。もし、平和への使命を自覚するならば、口先ではなく、日々、実際に何をするかです。いかに、自分を磨くかです。どれだけお題目を唱えて、どれだけ勉強したかです。

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仏法でなければ、真実の平和は築けません。紛争についても、武力によって制圧すれば、解決できると考えるのは誤りです。それでは、むしろ、憎悪を生み、果てしない報復の繰り返しになってしまう。戦争といっても、それを引き起こすのは、結局は人間です。ゆえに、平和の建設は、人間の生命を変革し、憎悪の心を慈悲に、反目を友情に変える以外にない。
その人間革命の道を教えているのが、日蓮大聖人の仏法なんです。

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励ましは、人間の心に勇気の火をともし、発心を促す。だが、そのためには、己の魂を発光させ、生命を削る思いで、激励の手を差し伸べなくてはならない。その強き一念の波動が、人の心を打ち、触発をもたらすのである。

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大事なことは、社会を、環境を変えていくのは、最終的には、そこに住む人の一念であるということです。

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すべては、人間の一念の姿勢です。意欲です。活力です。精神の力にかかっています。どんなに経済の支援があろうが、人間の精神が荒廃してしまえば、本当の発展はない。

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青年時代は、苦労に苦労を重ね、自らを鍛え抜いていただきたい。十年先、二十年先、三十年先をめざして、じっとこらえて、時の来るのを待っていただきたいんです。力をつけ、地中深く根を張り巡らせていれば、時が来れば、必ず花が咲きます

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人生はある意味で死闘といえる。血を吐くような思いで、無我夢中で戦っていくしかありません。悩んで悩んで、悩み抜いていくところに成長がある。人間形成がある。それこそが、生涯の財産になります。

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広宣流布の使命を自覚することです。人は、なんのための人生なのかという、根本目的が定まっていなければ、本当の力は発揮できないものです。また、力をつけ、立派な地位や立場を手にしたとしても、自分の立身出世のみが目的になっていれば、社会への真の貢献はできません。

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信心をして苦しみを受けるということは、一生成仏への道を進んでいる証拠です。それは、絶対に間違いない。

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本当の大功徳は、どんな大苦悩に直面しても、決して負けない自分自身をつくり、何があっても、揺るがない大境涯を築いていけるということなんです。それが、絶対的な幸福境涯です。

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本章を貫くテーマとして、一念次第ということである。

今日の聖教新聞にはこうありました。

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創立の父・牧口常三郎先生は、獄中から「心一つで地獄にも楽しみがあります」と家族に書き送られた。
先師が命を賭して教えてくださった精神の宝こそ「一念三千」の法理である。一念の心の変革が、一切を変えていく。
ゆえに、心を強く、また賢く育んだ人は幸福だ。
2016.6.9 聖教新聞 随筆 永遠なれ創価の大城より
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2016年6月8日水曜日

「新・人間革命」13巻 光城の章

広布の理想郷と今では言われる奄美大島であったが、30数年前は違っていた。公明党の候補が立つことへの恐れから、島の有力者たちが結託して学会員への執拗な嫌がらせ、村八分が起こったのだ。そんな中でもけなげに信心の実証を示そうと奮闘する会員の姿があった。秋には芸術祭が方面で開催されていった。



奄美広布にて、

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大聖人様は『末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』と断言していらっしゃる。折伏を行じる私たちをいじめれば、絶対に現証が出るよ。

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“恐れ”は、真実を見る眼を曇らせ、妄想をかき立て、さらに、人間を残酷にする。
その結果、理不尽な学会排斥の呼びかけに、大多数の人たちが同調してしまった。
いわば、村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な反学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。

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みんなが純粋に戦い抜いたから、三障四魔が競い起こってきたことは間違いない。しかし、村の人たちが魔であると、固定的に考えるのは誤りです。魔とは、衆生の心を悩乱させ、善事を妨げ、仏道修行を阻む“働き”のことです。魔は、仏身あ権力者、父母、師匠、妻子など、あらゆる姿を現じて、衆生の心を惑わします。
たとえば、母親が幼い娘を祖母に預けて学会活動に出ようとしたら、娘が行かないでと言って泣いたとする。それでやめてしまえば、魔に負けた姿です。
では、娘さんという存在自体が魔なのか。そうではない。自分にとって魔の“働き”になっただけで、娘さん自体は、魔でも、敵でもない。愛すべき対象です。
人間は、魔の働きをすることもあれば、諸天善神の働きをすることもあります。また、一つの現象が魔となるのか、人間革命への飛躍台になるのかは、自分の一念の問題です。

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大聖人は『我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。自分を迫害した権力者たちを、最初に救おうという、この御境涯に連なれるかどうかです。

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人間は、苦境に負けるのではない。自分自身に負けるんです。自らあきらめ、信念を捨て去り、敗れていくんです。今は、どんなに苦しくとも、広宣流布という最高の目的に生き抜いていくならば、十年後、二十年後には、絶対に花開かないわけがないと、私は断言しておきます。

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インドの独立運動の指導者であったマハトマ・ガンジーは、歴史上、偉大な運動というのは、必ず、五つの段階を経ると語っている。
それは、「無関心」「嘲笑」「非難」「抑圧」「尊敬」の五つである。
そして、「抑圧」にあっても生き残る運動は、必ず成功の異名である「尊敬」を集めると述べ、その秘訣は「誠実」であると結論している。

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芸術祭にて、

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実は、その原理が『異体同心』ということなんです。
世間では、団結というと、よく『一心同体』と言われる。これは、心も体も一体ということであり、心を同じくするだけでなく、行動や形式も同じことを求める。つまり、全体主義となり、どうしても、個性は抑圧されることになる。
それに対して、大聖人は『一心同体』ではなく、『異体同心』と言われた。これは“異体”である個人、また、それぞれの個性や特性の尊重が大前提になっています。

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信心に励むなかで、財産も、地位も、名声も、人間の永遠の幸福を約束するものではないことを学んできた。そして、“自分自身の宿命を転換し、福運をつけなければ、本当の幸福はない。その道は、仏法しかない”と、実感してきた。

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福運をうんとつけて、十年後、二十年後よ見ていてくれたまえと言いたい。今日も家庭訪問・唱題に徹すべし。

2016年6月7日火曜日

「新・人間革命」13巻 北斗の章

これまで旭川どまりであった北海道であったが、1968年9月、学会員の念願叶って、旭川を経て、最北端の稚内まで伸一を迎えることができた。その後は「座談会」が形式的になっていくのを憂い、座談会革命を起こしていく。


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「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それには、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」

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大聖人の御心である広宣流布を使命とし、正法を弘めゆく人は、地涌の菩薩であり、仏の使いであるとの宣言である。その実践のなかで自身が御本仏に連なり、仏・菩薩の生命が湧現するのである。清浄にして強き大生命力と無限の智慧とが脈動するのだ。そこに自身の生命の変革がり、「人間革命」「境涯革命」の道が開かれるのである。

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その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を会得していたのである。境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花を咲かせ、幸福の果実を実らせていった。
師とともに広布の誓願に生きる――そこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革命と宿命転換の直道がある。この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であり、特権といえようか。

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私たちの住む娑婆世界は、穢土、つまり汚れた国土であるが、正法を持った人の心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。その原理を確信できるかどうかで、すべては決まってしまう。

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大変な理由を数えあげて、だから無理だ、だからダメだと言っていたのでは、いつまでたっても何も変わりません。自分の一念が、環境に負けているからです。戦わずして、敗北を正当化しているからです。

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仏法は「心こそ大切」と教えている。感謝がある人は幸福である。心には豊かさがあふれ、喜びに満ち、生き生きとして明るい。福徳が輝く。
しかし、感謝のない人は不幸である。その心は暗く、貧しく、いつも、不平と不満、嫉妬と恨みと愚痴の暗雲が渦巻いている。
だから、人も離れていく。希望も、福運も消してしまう。自分で自分の幸せを破壊し、空虚と絶望へと自らを追い込んでいるのだ。慢心の人もまた、感謝の心がないゆえに、不幸であり、孤独である。

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憂愁や恐れが迫るのをひしひしと感じる。しかし、現状に、感謝していこう。逆境だからこそ家族のことを愛おしく感じられる。また、広宣流布に生きるしかないと腹を決めていけるのだ。

もし世界に学会がなかったら、お前はとうに自殺しているのではないのか。



「新・人間革命」13巻 金の橋の章

大学会の結成など学生部の育成に力を注ぐ伸一は、かつて戸田先生が「原水爆禁止宣言」をされたのと同日、1968年9月8日、第11回学生部総会の席上、「日中国交正常化提言」を断固と打ち出した。松村謙三ら日中友好を心待ちにする先達は高く評価し、周総理との面談を要請。ついに当初は政治の次元で、公明党がその役目を担い、やがて国交正常化が実現していく。伸一も、後に周総理が亡くなる直前に名場面といえる会談をなしたのだった。


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ともあれ、行動だ。生きるとは戦うということなのだ。
そこに、仏法者の使命があり、大道がある。

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国と国の関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆と民衆の相互理解が根本となる。それには文化、教育をはじめ、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。

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相手の国や民族、あるいは、地位や肩書などによって、態度を変えるというのは、人間として卑屈ではないか。また、それは、裏返せば、傲慢でもあるということだ。
相手によって威張ったり、下手に出たり、また、“立場”を鼻にかけてものを言うような生き方では、本当の友情は芽生えないし、本当の外交もできない。しかし、一個の同じ人間であるとの視点に立てば、共通項が見え、互いに身近に感じられるものだ。それが相互理解の手がかりにもなるし、共感も生まれる。

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伸一は、平和を願う一人の人間として、言うべきことを言い、行うべきことを行ってきたにすぎないと考えていた。
また、自分は、歴史の底流をつくればよい。日中の国交正常化が実現できれば、自分のしたことなど、誰を知らなくてよいと思ってきた。

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政府レベルの国交だけでは、真実の正常化には至らない。大切なことは、友情の橋、信義の橋を架け、民衆の心と心が、固く、強く結ばれることだ。

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“私は、わが生涯をかけて、堅固にして永遠なる日中友好の金の橋を、断じて架ける!”師走の北京の深夜は、底冷えがしていた。しかし、彼の胸には、闘魂が赤々と、音を立てて燃え盛っていた。

2016年6月5日日曜日

「新・人間革命」12巻 栄光の章

1968年4月8日、東京小平の地でいよいよ牧口先生が弟子に託してきた創価教育の学び舎がスタートを切った。この創価学園から、後に大学、小学校、幼稚園へと展開。現在では、その卒業生が実証を示しながら、海外にも展開されている。


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伸一は、「宇宙即我」「我即宇宙」と教え、一念三千という人間生命の大法則を説く仏法こそ、汲めども尽きぬ、深く広大な精神の泉であり、詩心の源泉であると確信していた。
そして、その仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業であるというのが、彼の一つの結論であった。

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いうまでもなく、創価学園は創価学会のために設立したのではない。我らの願いは、妙法の大地を根底に、崩れざる人類の繁栄と豊かな第三文明の花を咲かせることである。

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学園の建設は、民衆の真心に支えられてきたという、この偉大な事実を、生徒にも、教師にも、永遠に伝え抜いていかなくてはならない

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牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。

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戦後、日本は、飛躍的な経済発展を遂げたが、そのなかで、教育の目的も、経済発展に寄与する人間の育成が掲げられていった。
その結果、経済優先の価値観に基づく教育が大手を振り、「人生の目的とは何か」「何が善で、何が悪か」「真実の価値とは何か」といった問題の探求は、教育の場から切り捨てられてきたといってよい。それは、根本的な教育理念の欠如であり、人格の陶冶を忘れた教育の姿にほかならなかった。

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真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。

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青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、忘れないでください

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人生の栄光とは、どんな立場であれ、わが使命に生き抜くなかにある。根本的には、社会的な地位や役職が高いとか低いとか、富貴であるかないかなどは、問題ではない。人間として、どう輝くかです。

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さあ、今日も自分に打ち勝つ朝出発だ。宇宙即我・我即宇宙なれば、自身の人間革命が依法に波及していくことを確信しながら。

2016年6月4日土曜日

仏法と歴史 ~ジョン万次郎編~

5/29~6/3まで4日間、池田先生は聖教新聞ジョン万次郎を紹介してくださいましたね。大学時代に四国一周旅行に回ったとき、銅像を見て、漂流した人だとは記憶していましたが、いつの時代の人で、具体的な事跡についてはよく知りませんでした。

これを機会に、先生が若かりし頃に読んだという井伏鱒二氏の短編小説・「ジョン万次郎漂流記」と、短編では物足りず童門冬二氏「ジョン万次郎」を通読しました。

明治維新の坂本竜馬や勝海舟と同時代人だとは、幕末好きを呼称していながら知りませんでした。咸臨丸で条約批准のためアメリカに渡った時も通訳で同行していたとは。「新・人間革命」にて、池田先生が1960年にアメリカ初訪問されたときに、丁度100年前の1860年のこの日の出来事を感慨深く述べられていましたが、この時にサンフランシスコまでは彼も来ていたのです(咸臨丸の補修とかでワシントンには行かなかったとのこと)。


聖教新聞「新・人間革命」より、

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強き向上、向学の一念があれば、人生のいかなる逆境も、最高の学びの場となる。

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万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。

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自分に力もなく、立身出世や保身に執着する者ほど、胸中で妬みの炎を燃やす。大業を成そうとする英傑は、嫉妬の礫を覚悟しなければならない。
人間は、ひとたび嫉妬に心が冒されると、憎悪が燃え上がり、全体の目的や理想を成就することを忘れ、その人物を攻撃、排斥することが目的となってしまう。そして、さまざまな理由を探し、奸策を用いて、追い落としに躍起となる。
国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。

(中略)

大事なことは、その心を超克する、人間革命の戦いだ」

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報恩は、古今東西を問わず、普遍的な人間の規範といえよう。

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「ジョン万次郎」より、

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貧しさと、貧しさからくる辱しめとの二重の敵と、万次郎はいつも闘ってきた。その戦いが万次郎を強くした。大抵のことにはびくともしない性格の強さを、土佐の厳しい条件が万次郎に与えていた。

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帰れる日まで、できるだけこの国のいいところを学んで、日本に持ち込もう、と思っていたのである。

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りこうな万次郎は、表面は民主的で自由なアメリカの、隠された部分を鋭く見抜いた。しかし、その恥を、何とかして無くそうとつとめている、ホイットフィールド船長のような立派な人がいることも、正しく認めた。

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(したいことをすべきだ。)という考えは、万次郎にとっては、実に新しい考えだった。個人が自分の考えどおりに生きる、ということは、日本では、あまり許されないわがままなのである。

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(大きな船が自由に造れるからだ。そして、どこの海へでも出ていけるからだ・・・・・・)という、アメリカやヨーロッパの、海に対する考えかたの違いなのだ、ということが強く感じられた。

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本当は人間の冒険心は純粋で美しく、また、それが人間生活にいろいろな新しい便利をもたらすものだが、この冒険心に、ときどき、裏があることがある。
それは、冒険によってお金を儲けようとすることだ。

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人間には、やはり、生きる場所というものがあるらしい。力が思いきり発揮できるところにいないと、逆にだめになってしまうのだ。

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いま、何かをしていないと、わたしの冒険心がだめになってしまうような気がするのです。

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準備を全部整えてから仕事にかかる、というのが、万次郎のやりかただったのである。

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ものごとの始まりはいつもそうである。始まってしまうと、意外とあとの収穫のスピードが速いものなのである。

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「アメリカでくらして、一番頭のなかに残ったことはどういうことか?」
万次郎は、すぐさま答えた。
人間に、身分の高い、低いということがないことです。」

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万次郎は、英語に限らず、学問の勉強にひとつの考えを持っていた。
それは、「学ぶ気がなければ、何を教えたってだめだ。」という考えである。

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今の日本の動きかたに非常に不満だった。みんなが一生懸命に国のことを思っているのはわかる。政府を替えるのもいいだろう。
しかし、いったい、誰のために、何のために替えるのだろう?その“誰のために”ということを討議する人が一人も出てこないのは、どういうわけだろう。

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新しい日本が考えなければならないのは、日本の国民全部の幸福だ。一部の人の幸福ではない・・・・・・

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徳川幕府が倒れて、新しくできた明治政府は、日本をヨーロッパの国々の経済や文化水準に追い付かせようと必死になった。
「まず、国を富ませることだ。」
と考えて、日本の工業化に大きな力を注いだ。そのかわり、国民を富ませることを忘れてしまった
「国民にはなにも知らせる必要はない。ただ、政府に頼らせておけばよい。」
という当時の考えは、その後もずっと続く。

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そう、創価学会は冒険心をもって、強く賢い世界民衆勢力を築きあげるのだ!

2016年6月1日水曜日

仏教と歴史 ~ナポレオン編②~

池田先生は過去に何度もナポレオンを紹介されていますが、生涯を一読してよく理解できました。先生もまたナポレオンのごとくあらゆる知性に恵まれ、ナポレオンが民衆の心をつかまんとしたごとく、それを宗教(人生への基本的な法則を示す)によって達成しようと絶えず努力されていることを。近代ナポレオンも目指した世界連邦、将来はその方向へ向かうのでしょう。



戴冠式の栄光から、そして没落へ・・・ (赤字が成功へ、黒字が失敗への因)

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それよりももっと大きい陥穽は、成功のともなう本人心内の変化だ。慢心と油断だ。

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適材適所ということが人類の要求だ。人材抜擢ということが古今の希望だ。それをもっともめざましく代表したるところに彼の人気があった。一兵卒より元帥をつくり、一属官を一躍して大臣にした彼の人材登用主義が、革命フランスの理想だ。

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彼が少年以来のぞんだものは、ほとんどこれを達した。しかるににぎってみたらそれはなんという違ったものであったろう。金と思ってつかんだのは、泥であったのか。声名も富貴も王冠も、これだけの努力のかいのあるものなのか。大きい失望、ものたりなさ。それが青年貧窮の日のように重く、彼の頭を圧してきた。
ただ彼は東洋を思うときだけ、喜色満面少年のように快活であった。

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ナポレオンの帝室費はブルボン王に比して四分の一しかかかっていなかった。それがナポレオンの強味であった。彼は一生ぜいたくということに興味をもっていなかった

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彼は細事に注意深かった。それが彼の大事業をした秘訣であった。

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泉のわくように知恵が日夜、あの大きい頭のなかからわきでていたものらしい。しかもそのわいた考えをことごとく自分でこまかく仕上げる力をもっていた。

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彼の成功と失敗との根本原因がひそんでいた。彼は人間の弱点を利用した。人間の金銭欲と、名誉欲とを十二分に利用した。そうしてすべての人がそれで思うように動くのを見て、あまりにその一方に片よりすぎてゆきつつあることに気がつかなかった。

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彼は利欲権勢以外の、ある清純な理想を大衆の前に標置して、小我以上の大我に向かって天下国民の注意を集めてゆくことを、しだいにおろそかにするようになった。

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こうして一方には帝制を維持せんとして思想弾圧をおこない、ために全欧の自由主義者の痛憤を買って新しき国民覚醒運動の端をひらいたように、他方には誤った経済政策を強行せんとして大衆の生活を圧迫し、しだいに彼にたいする謳歌の声が呪詛に変わっていった。

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四十年の人生を振り返ってみる。なんという寂寞たる天地だ。小人物とあきめくら。あおいで宇宙の幽玄に参入し、伏して全人類の運命を思う者はいないのか。この乱雑な人間界に秩序を与え、悠久な人類史に基本的な法則を提示することが、人間の一番大きい仕事だということを悟るやつはいないのか。

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「前進!」
なにをぐずぐず思い迷うのだ。おまえのゆく道はただ一本だぞ。前へ前へと進んで今日まできたのだ。いまさらここで踏みとどまって満足するのか。攻めるのが守る唯一の道だ。停止は自滅だぞ!戦え!戦え!前へ前へと出て戦え!

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逆境に処してはじめて人のまことを知る。彼は利欲をはなれて彼を愛していたのはだれだれであったかをはっきりと知ることができたのだ。

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彼はほんとうの休息をしていない。人間のほんとうの休息は、宗教と家庭と芸術だ。その一つだに彼は持っていないではないか。永遠の実在に一身を委していっさいを忘れる宗教も、地上の純愛に陶酔して世累から解放される家庭も、一曲の神韻に世外の人となり、一幅の名画に登仙する芸術的歓喜も、はた一抹の清香に酔い、一輪の野花に心おどる自然愛も、彼にはなかったのだ。

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彼は口授しているときは、なにものも耳にはいらず目にはいらなかった

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自分の最大の敵は自分自身であったのだ。自分が自分の悲惨なる運命の原因であった。

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彼が三つのものを多量にそなえていたということだ。
一つは、分析的能力で、
一つは、総合的能力で、
いま一つは、非凡な実行力だ。

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ある哲人のいったように、「自己心内の恐怖心を克服したる人を真の貴人とす」である。われわれはいろいろの希望と計画をもっている。しかし危険の恐怖のために、とうとうこれを実行せずして死んでゆく。なんびとといえども、自己心内の恐怖心を克服したら、すばらしい仕事ができるのだ。

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「おれは頭のなかにたくさんの引き出しがあって、一つの仕事をはじめると、ほかの引き出しはちゃんとしめてしまうのだ。それがすむと、その引き出しはしめて、すぐまたほかの引き出しをあけるのだ。だから引き出し同士がまざることは決してないのだ。そうして眠るときは引き出しをみんなしめて寝る」

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2016年5月30日月曜日

仏法と歴史 ~ナポレオン編~

今月の本部幹部会で紹介されたのは、1993年6月の池田先生の本幹スピーチで、ナポレオンをテーマにしてましたね。

今日の聖教新聞に掲載されていたので、そちらを中心に紹介します。さらに、今日から、先生もかつて読んだという鶴見祐輔氏著の「ナポレオン」を読み始めました。戴冠式までの中からこれぞという文章を紹介します。



聖教新聞から、

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ナポレオンは、語った。
「それにしても、私の生涯は、何という小説(ロマン)であろう!」
皆さまも、自分自身の「ロマン」をつづり、自分自身の「歴史」をつくることである。
だれに言われようが言われまいが、自分は自分らしく、決然たる「舞」を舞い、「曲」を奏で、「劇」を演じゆく人生であっていただきたい。

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ナポレオンは、戦いにあって、常に先頭に立った。「常に先頭に」――これが指導者の鉄則である。
次元は異なるが、日蓮大聖人も、法戦の先頭に立って戦われた。ゆえに門下の私も、常に先頭に立つ。

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ナポレオンは、体験のうえから次の言葉を残している。
「いたずらに多くの人間がいたからといって何もならない。一人の人間こそすべてである」
牧口先生も、「羊千匹より獅子一匹」と言われた。
私も、「ただ一人で」の決心を貫ききってきた。

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ナポレオンは、ある時、こう語った。
「華々しい勝利から没落への距離はただ一歩にすぎない。私は、最も重大な状況において、どんな大きな事件もほんのちょっとしたことで常に決まるのを見て来た」と。
これは、私が戸田先生から厳しく教わったことでもある。

(中略)

「油断大敵」。これは、一国の歴史にも、一人の人生にもあてはまる真実であろう。

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「ナポレオン」から、

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彼のうちには矛盾した二つの性格があった。その一つは女性のように敏感な内気であった。もう一つは獅子王のように勇敢な冒険精神であった。

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当時の彼の手記で後世をおどろかすのは、この二十未満の青年が、分析力と総合力とを異常にもっていたことである。分析的頭脳の人は小局にとらわれやすく、総合的頭脳の人は放漫空粗にながれやすい。しかし偉大なる人傑はつねに総合的頭脳の人であった。

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彼の征服欲のうちには、彼自身のために世界を征服しようという欲求のほかに、しいたげられたる一般大衆のために、支配階級を打倒し征服しようという欲求が強く働いていた。ゆえにそれは、現状を維持しようとする征服欲でなくて、現状を打破しようという征服欲であった。であるから彼は終生反逆児であったのだ。いな反逆児であるべきであったのだ。

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「前進!」
それが彼の決意であった。人生畢竟一賭博、運命はただ天にあり。男子功業をたつるの途は前にある。

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ナポレオンの当時の手記に「精神は剣よりも強し」という句がある。彼は軍人としての戦勝よりも、文章言論による民心把握の力が、近代大衆運動においてはるかに有力であることを知悉していたのである。

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あのロディの戦争の夜、余は自分の非凡人であることをはじめて意識した。その折りまでは空想とのみ考えていた大事業を実現しようという大志が発生したのはあのときからだ」と。
人間の一生には、俄然として神秘の扉が開いて、さっと自分の運命が見わたされる瞬間があるものだ。

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男性は女性の刺激によって発達し、女性は男性の啓発によって進歩する。人間の人格完成の道行きは、多く異性の感化である。

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彼は人間の社会的努力の目標として、金銭のほかに名誉を標置することのいかに重要なるやを知っていた。

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人間は働いているときに一番幸福である。ことに天才児はその非凡の天分を十二分に発揮するときにもっとも幸福である。ナポレオンが青年失意の日に、しばしば死を思ったのは、金に困ったからでも、名誉が得られなかったからでもなかった。彼はむずむずするように五体にあふれているその才能のはけ口がなくてはげしい憂鬱を感じていたのだ。

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わかる、ナポレオンの冒険精神が。いよいよ前進、前進、これからだ。

「新・人間革命」12巻 天舞の章

1967年9月1日、学会本部に隣接して、創価文化会館が落成。10月15日、学会の文化祭史上、最も大規模なものとなった東京文化祭が。そこには、出演者一人ひとりの涙ぐましい挑戦と人間革命のドラマがあった。同月下旬、「ヨーロッパ統合の父」として知られる、カレルギー伯爵と会見。後年、対談集『文明・西と東』として結実する。



文化について、

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広宣流布とは、一口にしていえば、日蓮大聖人の大仏法を根底とした、絢爛たる最高の文化社会の建設であります。そして、世界の人びとの幸福と平和を基調とした、大文明の建設であります。すなわち、色心不二の大生命哲学を根幹とした、中道主義による文明の開花であります。

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文化は、人間性の発露である。ゆえに、優れた文化を創造するには、まず、人間の精神、生命を耕し、豊かな人間性の土壌を培うことである。そして、それこそが宗教の使命といえる。その土壌のうえに、芸術、文学はもとより、教育、政治など、広い意味での優れた文化が、絢爛と花開くことを、伸一は確信していたのである。

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文化祭は、創価学会がいかに文化の向上に真剣であり、平和文化を愛好しているかということを示す縮図です。

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文化祭の練習等学会活動について、

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友の幸福を願って、懸命に唱題し、活動に励めば励むほど、心の底から歓喜が込み上げ、生命の燃焼と躍動を覚えるのである。それは、これまでに体験したことのない、充実した境地であった。

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その一念こそが、その粘り強い、執念の前進こそが、困難の壁を打ち破る力となるのだ。

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皆が、自身に打ち勝った勝者であった。
皆が、感動の青春ドラマを演じたヒーローであり、ヒロインであった。

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世界の平和とは、与えられるものではない。人間が、人間自身の力と英知で、創造していくものだ。戦い、勝ち取っていくものだ。ゆえに、人間が、自身を磨き、自分の弱さに挑み、打ち勝つことこそが、平和建設の要諦といえる。つまり、自己の境涯を開き、高めゆく、人間革命の闘争なくして平和はない。

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御聖訓には、「陰徳あれば陽報あり」と仰せである。
それを確信できるかどうかに、信心は表れ、また、それが、一生成仏を決するといってよい。

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カレルギー伯爵との会談にて、

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仏法というのは、人間と宇宙を貫く、生命の永遠不変の法則であり、また、人類の平和と幸福を実現するための指導原理といえます。したがって、現代科学とも、決して矛盾するものではありません。むしろ科学技術をリードし、人間の幸福に寄与するものにしていくための、哲学が仏法なんです。

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もちろん、暴力やテロは絶対に悪ですし、民衆を支配し、隷属化させる権力とは、どこまでも戦います。
しかし、人間の幸福、救済をめざす思想、宗教には、本来、人間を尊重するという共通項があります。それがある限り、必ず通じ合い、共感し合うはずであり、相互理解は可能であると思います。
さらに、仏法で説く、万人が等しく『仏』の生命をもっているという考え方は、人間を貫く、内なる普遍の世界を開示するものといえます。
人類がそこに着目し、人間の共通項に目を向けていくならば、分断から融合へと発想を切り替える、回転軸となっていくと確信しています。
また、宗教の違いによって生じた文化的な差異は、違いを認めるというだけでなく、むしろ尊重すべきです。

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2016年5月28日土曜日

「新・人間革命」12巻 愛郷の章

海外から帰国後は一転、地方指導に力を。一期一会の想いで中小都市にも少しでも足を運ぼうと努める。群発地震の続いている長野県松代や、江戸時代に悪政に苦しんだ岐阜県高山といった、国土の宿業が深い地域ともいえる場所へ積極的に宿命転換をかけた激励の手を。


寄せ返す波浪は、やがて、岩をも打ち砕く。

そうだ。間断なき出発だ! 間断なき前進だ! 連続闘争だ!

そこにこそ、人生と広布の大勝利の道がある。


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仏法には、地震は、人びとが正法に背くゆえの災難であるとの、とらえ方がある。
また、釈尊が法華経を説く時、大地が六種に震動したとされていることから、正法興隆の瑞相ともとらえられている。

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勝利者とは、心の壁を破った人の異名である。

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人間の成長は、“もうこれ以上はだめだ”という、自分の限界を超えて、突き進んでいくところにあるのだ。その時に、初めて自己の殻を打ち破り、力をつけ、境涯を開き、人間革命が可能となる。

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忙しくとも、音楽を聴くぐらいの、心の余裕はなくてはならない。信心をしているからといって、世界を狭くしてはいけないよ。本来、広宣流布というのは、人間文化の創造の運動なんだからね。

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大聖人は『立正安国論』のなかで、“実乗の一善”すなわち、法華経に帰依すべきであると訴えられております。法華経とは、大宇宙を貫く生命の根本法則を説いた教えであり、また、生命の尊厳の思想、慈悲の哲理です。そして、この正法を生き方の根本とし、自身の一念を、生命を変革していくならば、いかなる環境をも変え、崩れざる幸福を築き上げることができると、大聖人は宣言されています。

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戸田は、徹して悪を打ち砕かんとする敢闘と執念のなかにのみ、正義と人道の勝利があることを、弟子たちに教えたかったのである。

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人生も、広布も、自己の心に宿る惰性と油断との戦いといえるかもしれない。“敵”は外にいるのではない。己心に潜むものだ。

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その本質は、慢心なんだ。

(中略)

惰性化していくと、そうしたことを、真剣に受け止められなくなってしまう。

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広宣流布は、永遠の闘争です。ゆえに、何があっても、戦い続けていくことです。昨日、しくじったならば、今日、勝てばよい。今日、負けたなら、明日は必ず勝つ。そして、昨日も勝ち、今日も勝ったならば、勝ち続けていくことです。

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いつの世も、保身に汲々とする臆病者の姑息さこそ、悪を肥大させていくのである。

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信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるということではありません。
要は、その苦難に負けずに、悠々と乗り越えていけるのかどうかです。それによって、人生の勝敗も、幸・不幸も決まってしまう。

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「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり」

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地域の繁栄は、人びとの一念を転換し、心という土壌を耕すことから始まる。そこに、強き郷土愛の根が育まれ、向上の樹木が繁茂し、知恵の花が咲き、地域は美しき幸の沃野となるからだ。また、そのための創価の運動なのである。

2016年5月27日金曜日

中国文明史余話 ~戦国の中山編~

もう一つ。戦国期B.C.414年に興り、B.C.296年に滅んだ強国を記録しておきます。その名は中山国で、魏・趙・斉・燕と接する北方にありました。北方民族である鮮虞族が北方を犯して立てた国です。

「中国文明史」も「戦国名臣列伝」もこの国を軽視できないようですのでここに記します。一時期、魏からの支配を受け、中原文化を吸収し、青銅器文化を発達させた国でした。

以下、楽毅の出身が中山との著者の説から、「戦国名臣列伝」に詳しくこの国のことが書かれています。

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中山の君主が王を称えたのは、宋王より早く、紀元前313年のことで、宋王とちがうのは、それが自称ではなく、他国の王に承認されたということである。それゆえ中山の朝廷は王朝となり、その王朝は中山国が滅亡する紀元前296年までつづいた。
とはいえ二十七年間の王朝はいかにも短い。それゆえ百年後には、中山は伝説の国となり、千年後には、幻の王国、となった。
だが、中山国はまぎれもなく存在した。一九七四年に考古学調査が中山王陵でおこなわれて、一九七八年までに三十余基の墓や都城遺跡があきらかにされた。

(中略)

が、皮肉なことに、中山の君主が王を称えたことが中山国の滅亡の遠因になった。
すなわち、中山君が王を称えることにかねて難色をしめしていた斉王が、自身が出席しない諸侯会同において中山君の称王が許されたことを知り、

―――不愉快である。

(中略)

中山王と斉王が慢心の上にいたことはたしかであろう。慢心は知恵を涸らし、人を去らせる。

(中略)

中山王の尚は膚施へ移され、平民となった。

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先に楽毅のところで紹介した「五尽」を中山は具えてしまい滅んだのでした。

慢心を起こした組織が崩壊するのは早いですね。

中国文明史余話 ~戦国の秦編②~

さあ、いよいよ天下統一です。顔ぶれは4人。戦国中期から末期へ。韓・魏・楚・趙・燕と滅び、斉は戦う気力なく併呑されていくのです。燕の放った始皇帝暗殺の刺客・荊軻は実に惜しかったですけど。

・白起(ハクキ)
・范雎(ハンショ)
・呂不韋(リョフイ)
・王翦(オウセン)

白起は、先に書いた魏冄が登用した常勝将軍です。秦の版図は彼によって大きく広げられました。このまま魏冄が宰相でも統一はなったかもしれませんが、そこに現われた若手ホープが范雎。
彼の遠交近攻策が王の採るところとなり、魏冄とともに白起も表舞台から去っていきます。最後は多くの兵士を殺してきた罪を償うという名目で自殺します。

范雎は、天下統一へ向けて、遠くの斉と同盟を結びながら、多いに近隣国を攻め、天下統一の道筋を立てました。最期は斡旋した他者の罪の責任をとり宰相をやめました。

呂不韋は、いわずと知れた始皇帝の実の父親説のある商人出身の宰相で、始皇帝の父親がまだ人質だったところから一躍、秦王にのしあげたのも彼の実力です。最期は力をもちすぎて、始皇帝から死を賜り、毒を飲み自殺しました。「呂氏春秋」といわれる百科事典も後世に残し、エピソードがありすぎです。

王翦は、わざと欲深いところを始皇帝に示したりして、始皇帝から疑われるのを避け、見事彼の息子、王賁と天下統一を果たすのです。決して無茶な戦いをしない戦術で、これほど天下統一を速めたのは、彼の将としての器が天授のものだったのでしょう。



宮城谷昌光氏「戦国名臣列伝」「春秋名臣列伝」に比べてエピソードが充実し、永久保存版にしておこうと思います。最期の秦の4人のところを詠めば、秦の天下統一がどうやってなされたかわかるようになっています。陳舜臣氏「小説十八史略」と合わせて読めばほぼ内容は同様ですが、さらに充実するかと。

中国文明史余話 ~戦国の秦編①~

秦は末期には天下統一へ突き進んでいく巨大国ですが、前期~中期はまだ後発国からの成長期でした。

その成長を支えた二人、

・商鞅(ショウオウ)
・魏冄(ギゼン)

商鞅は、未開発国に色濃かった神権的政治から、秦を法治国家に目覚めさせた才人です。日本の江藤新平とイメージが重なるべく、刑罰を受けたものからの怨みがひどく、最後は自らの法により無実の罪を着せられ、車裂の刑にあいます。

魏冄は、立ち回りが絶妙で、登るところまで登った達人です。中期に秦と斉を二大国と決定づけたのも彼です。その後も斉の力を合従によって削ぐ等と功績は絶大ですが、最後は新しい人材の台頭で身を引かざるを得ませんでした。


この二人にぴったりの「菜根譚」の条文を、

第137条
  位階勲章は高くなりすぎず、
  自分の得意とする処は、
  得意を出し切らぬが、危険を避ける方法




最後に、組織についての重要な著者の言葉、

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富強をはたしたという驕りは、人材の発掘をにぶらせ、観察眼をくもらせ、危機意識を払底し、改善の意欲を減退させた。人でも組織でも、現状に満足してそれを守ろうとした瞬間から衰頽がはじまると想ったほうがよい。それをまぬかれるためには、改善しつづけても達成しえない高みに志をおいておくことであり、志と目的とはちがうということを認識しておくべきである。

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「新・人間革命」12巻 新緑の章

1967年5月3日、会長就任7周年を大勝利で飾った伸一は、気を緩めることなく一瞬一瞬を激励にあてる。13回目の海外訪問へ。ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークとアメリカを回り、そのままフランス、イタリア、スイス、オランダとヨーロッパへ。海外も本門の時代へ第二幕を迎える。青年が若芽のごとく育っていることに喜びを覚えるのだった。


まず、現代文明への達観、

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現実社会のかかえる問題を直視し、その解決に取り組んでいくなかにこそ、仏法者の真実の生き方があるからだ。
「現代の思想家、知識人が憂えている文明の行き詰まり等の問題は、究極的には、人間性喪失、すなわち、人間疎外の問題であります。
これは、物質文明、機械文明の目覚ましい発達に比べて、精神文明が立ち遅れ、人間が主体性を失い、生命の尊厳を忘れたゆえであります。
その幾つかの局面をあげてみますと、まず、生活のあらゆる部門が機械化され、人間は機械に従って動いていればいいような、機械が主人で、人間が家来といった関係になってしまった。企業等でも、機械化、合理化のために、労働者が首を切られるという現象も起きております。
また、いわゆる官僚機構に見られるごとく、組織が膨大となり、人間一人ひとりは、その歯車にすぎなくなってしまっております。そこでは、組織それ自体が巨大なメカニズムとなり、個人の意思を超えて動き、個人は言い知れぬ無力感と虚無感に覆われている。
さらに、マスメディアによって、情報、ニュースが、洪水のように流されるなかで、現代人の多くは、ただ、それを受け取るだけになっているというのが、悲しき現状であります。
そうした状態が続くうちに、自分から意欲的に主体性をもって働きかけるよりも、いつも何かを待っているような、受け身的で消極的な、弱々しい精神構造になりつつあるといえます。また、生き方、考え方の確固たる基準がないところから、理性的な判断に欠け、その場、その場で、衝動的、本能的に行動してしまう傾向が強くなってきている。

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数々の御指導、

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組織といっても、あるいは運動といっても、それを支えているのは、一人ひとりの人間である。その人間が一念を転換し、使命に目覚め立ち、最大の力を発揮していくならば、すべてを変えることができる。

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人生の勝利の姿は、地位や名誉を手に入れたかどうかで決まるものではありません。最後は、どれだけ喜びをもって、はつらつとした心で、人生を生き抜いたかです。

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真剣――この二字のなかには、すべてが含まれる。真剣であれば、勇気もでる。力も湧く。知恵も回る。また、真剣の人には、ふざけも、油断も、怠惰もない。だから、負けないのである。そして、そこには、健気さが放つ、誠実なる人格の輝きがある。

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人生の道は、人それぞれであり、さまざまな生き方がある。
しかし、広宣流布の大使命に生き抜くならば、いかなる道を進もうが、最も自身を輝かせ、人生の勝者となることは絶対に間違いない。

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「若い世代を育成するための要諦というのは、なんでしょうか」
言下に、伸一の答えが返ってきた。
「後輩を信頼し、尊敬することです。信心して日が浅いからとか、年齢が若いからといって、自分より下に見るというのは間違いです。そして、自分以上の人材にしようという強い一念をもち、伸び伸びと育てていくことです。

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ともあれ、学会活動で苦労した分だけ、自分自身の生命を磨き、宿命を転換し、福運を積み、幸せになることができる。ゆえに、学会活動は、断じて守り抜かねばならない、自身の人間としての権利なのである。

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リーダーというのは、神経を研ぎ澄まし、一つの事故を戒めとして、敏感に対処していかなくてはならない。そうすれば、大事故を未然に防げる。

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信心をして小さな功徳を受けるのはたやすい。しかし、宿命の転換という大功徳を受けることは容易ではない。宿命を形成してきた自身の心、性格を見つめ、生命を磨き、人間革命せずしては、宿命の転換はないからだ。
そして、それには、自身の広布の使命を果たし抜いていくことだ。決定した信心に立って唱題に励み、障魔と戦い、悪を打ち砕いていくことだ。

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平和は与えられるものではなく、権力の魔性、人間の魔性と戦い、打ち勝たなければ、手に入らないものであることを痛感していた。

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困難に直面した時、逡巡し、立ち止まるか。勇気を奮い起こして突き進んでいくか――それが、すべての勝敗を決する要諦といえよう。

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子どもは、日々、親の姿、生き方を見て、信仰への理解と共感を深めていく。ゆえに、親自身が、いかなる困難にも負けない強さや明るさ、人への思いやりなど、人格の輝きを増していくことが大切であり、それが、仏法の偉大さの証明となる。
ともあれ、子どもに信心を継承していくことは仏法者としての親の責務であり、そこにこそ、真実の愛があるといえよう。

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人生の戦いというのは“もうだめだ”と思ったところから、どう立ち上がっていくかにある。そこから、本当の勝利への飛翔が始まるんだ。

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先生からの激励を直接頂いた気分である。今の苦しみを必ず乗り越えて広布に生き抜いてみせる。そう決定した唱題からまた今日も一歩を。

2016年5月26日木曜日

中国文明史余話 ~戦国の斉編~

斉は秦とどちらが天下をとるかというくらい、戦国七雄のうちの二大国であった。最期に滅ぼされたのも斉。しかしながら、斉も一度、あの燕の名将、楽毅にもっとはやく滅亡させられそうになったことがある。

次の二人のうち一人は、その滅亡を救った英雄である。

・田単
・孫臏(ソンピン)

田単が、楽毅が落とした70余城の後に残された3城に立てこもり、楽毅を失脚させて、後釜の将を大敗北させ70余城を取り戻した人で、小役人出身というからまさに英雄です。ちょっと権謀術数が多い人のイメージはあります。最期はあまり斉で優遇されず、これまた楽毅と同じく趙に優遇され宰相とまでなったというから、趙の恵文王の徳もすごかったのだと改めて感じました。楽毅と田単は趙で再開してこの時のことをたぶん幾度となく語り合ったでしょうね。

孫臏は、これまた有名で、孫子の兵法の孫子には実は二人モデルがいた!というもう一人の方です。孫子の兵法と普段使われている方は、呉にいた孫武のことですが、この時代、孫子といえば、この斉の孫臏も兵法家として知られていたことが、出土した竹簡から分かったのです。臏とは、魏の同学の者に騙されて、彼が両足を切られる刑をうけていたからです。その復讐を国同士の合戦で果たすのだから痛快なエピソードです。孫武よりも物語性はもっている人ですね。

この二人にあった「菜根譚」一度絶望の淵に立たされる程、苦労したことが名を上げる鍛錬となったこの条文でしょうか。

第127条
  災厄や逆境、困窮に遭う事は人間を鍛える
  一つの鍛冶床である。
  よく鍛えれば心身と共に益し、
  鍛えないと心身共に駄目になる。




「新・人間革命」11巻 躍進の章★

1967年、「躍進の年」明ける。瞬時の休みもなく全国各地の撮影会等の激励に臨む。1月、公明党は初挑戦の衆院選で勝利し一躍第四党に。中道政治の実現へ本格始動する。この激闘の最中においても、伸一は常に学ぶことをやめず、大学の卒業レポートを書き上げるのだった。新潟の指導において、佐渡を訪れ、日蓮大聖人の殉難の御生涯を偲ぶ。




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人びとはリーダーの言葉についてくるのではない。行動についてくるのだ。
口先だけのリーダーは、やがて、その欺瞞の仮面をはがされ、誰からも相手にされず、見捨てられていくにちがいない。

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ぼくは今、大学に提出するリポートを書いているんだよ。学ぶことは楽しいし、学ぶことは人間の権利なんだ。だから、どんなに忙しくても、激務の日々であったとしても、学ぶことをやめてはいけない。

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会館について、

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文化会館も、会館も、機能、内容は同じである。しかし、伸一が、あえて「文化」という名を冠した会館の建設を推進してきたのは、広宣流布とは、人間文化の創造であると考えていたからである。
宗教はなんのために存在するのか――。
それは、人びとの幸福のためである。生きがいある人生のためである。そして、それを実現するには、人間尊重の社会を築き、さまざまな人間文化の花を、咲かせなくてはならない。つまり、宗教が社会建設の力となってこそ、宗教の目的を達成することができるといえよう。

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彼は、各県などの中心となる会館は、しっかりとした、大きな建物にしなければならないと思っていた。
それは、ひとたび災害が起きた時には、学会の会館は救援対策本部となり、また、臨時の避難所として、被災者を受け入れられる建物にすることを、考慮してのことであった。

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信心とは、

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信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生があることを知っていただきたいのです。

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「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」と。法難の時こそ、“師子王”となって戦え、そこに成仏があるとの指導である。
ここには、「難即悟達」の原理が示されている。
日蓮は、法難こそ、一生成仏のための不可欠な条件であることを教えている。それゆえに、難を「喜び」「功徳」ととらえ、難を呼び起こせと説いているのである。
そして、自分を迫害した者たちに対しても、彼らがいなければ「法華経の行者」にはなれなかったと、喜びをもって述べているのである。

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2016年5月25日水曜日

中国文明史余話 ~戦国の燕編~

燕は大国とばかり思っていたイメージが少し違いました。戦国期は斉の勢力が強く、実情は斉の属国のようになっていたようです。その燕を一躍スターにした二人がいます。

・蘇秦(ソシン)
・楽毅(ガクキ)

蘇秦は、戦国が合従連衡の時代と言われる合従の方を唱えた先駆者。連衡の張儀と並んで同じ鬼谷子に学んだ同門ということで、エピソードとして欠くべからざる人物です。

楽毅は、後の世の劉邦や諸葛孔明が尊敬したというほど徳の高い軍師。蘇秦の策謀と楽毅の徳によって燕は一躍、斉をあわや滅亡というところまで追いつめます。70余城を落とし、残り3城というところで主君が没し、よくある話で暗君のために亡命します。

これだけ有名な二人ですが、末路は違いがあります。その差は才能をどのように使ったかだったのではないかと思います。蘇秦は自分の亡骸まで策謀に使い、車裂の刑になります。楽毅はあの黄金時代の趙で礼遇されて亡くなりました。



「菜根譚」のこの条文で二人の違いを現したいと思います。


第139条
  徳は才能の主人であり、才能は徳の下僕である。
  才だけあって徳がないのは、丁度家に主人がなく、
  下僕が切り盛りしているようなもので化物が出る。




もう一つ、楽毅のところで亡国の条件、五尽について、

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①約束したことを守らない ・・・『信』が尽きる
②人を正しく誉めない   ・・・『名』が尽きる
③臣民を愛さない     ・・・『親』が尽きる
④食料がない       ・・・『財」が尽きる
⑤人を用いない      ・・・『功』が尽きる

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あっ 菜根譚含め④以外全てうちの会社のことでは・・・ 

財が尽きると亡くなるのか・・・ さもあらん・・・


楽毅はぜひとも長編で読んでみたくなりました。

「新・人間革命」11巻 常勝の章

北南米訪問を終えた伸一は、班長、班担当員など、第一線で活動に励むメンバーとの記念撮影、激励に日本各地を回り始めた。1966年、9月18日。伸一を迎えた関西の友は、関西文化祭を雨の中決行。歴史に残る文化祭となった。この頃、海外のメンバーもいるベトナムで、戦争が深刻化し、11月の青年部総会では世界へ向けて和平宣言を行うなど使命を果たし続けた。



最近の聖教新聞から、

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負けじ魂を満天下に示したのが、兵庫・西宮の阪神甲子園球場で開催した、あの「雨の関西文化祭」であった。
台風接近の影響による激しい雨がグラウンドを打ち付ける中、わが関西の青年たちは、試練の逆境をはね返し、偉大な人間賛歌の舞台に変えた。
その常勝不敗の魂は、半世紀を経た今も脈々と流れ通っている。

2016年5月9日 「聖教新聞」 永遠なれ創価の大城 より
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関西文化祭、またそれ以前において、

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偉業というものは、称賛も喝采もないなかで、黙々と静かに、成し遂げられていくものといえる。

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山本伸一は、法華経の湧出品に説かれた、「如蓮華在水」の文を、眼前に見る思いがした。この文は、地涌の菩薩がよく菩薩道を行じて、世俗に染まらぬさまを、泥沼のなかにあって清らかな花を咲かせる、蓮華の姿にたとえたものである。
彼は、皆が、今日の決意を忘れることなく、自らの使命に生き抜く限り、生涯、何があろうが、いかなる環境に置かれようが、必ず幸福の花を咲かせるにちがいないと、確信することができた。

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学会精神とは―――人びとの幸福のため、世界の平和のために戦い抜く、慈悲の心である。何ものをも恐れず、苦難にも敢然と一人立つ、挑戦の心である。断じて邪悪を許さぬ、正義の心である。

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“陰の力”としての役割を担ったメンバーが、どれほど使命を感じ、誇らかに、生き生きと、作業に励んでいるかに、実は、その催しの意義の深さと、その団体の真価が現れるといえよう。

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ベトナム戦争において、

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「三諦」を生命論の立場から述べると、「空諦」とは、目に見えない性分であり、主に心、または精神作用にあたる。心や精神は「空」であって、有でもなければ無でもない。冥伏して、縁に触れて現れる不可思議な実在である。たとえば、人間の怒りにせよ、何かを契機にして、込み上げてくるが、やがてその感情は去ってしまう。
また、「仮諦」とは、主に物や肉体、姿、形、その活動の面をいう。それは種々の条件の組み合わせにより、仮に成立し存在している。ゆえに、花もいつかは散っていくのである。
さらに、「中諦」すなわち「中道」とは、生命の本質、本体、または生命の全体をいう。
生命は、心という「空」の面と、肉体という「仮」の面を兼ねそなえながら、どちらにも偏らずに存在しており、それらを貫く、生命の本源、本質が「中」なのである。怒りを例にとれば、人は怒っていない時でも、怒りは心のなかに冥伏しており、怒りの生命そのものがなくなってしまったわけではない。あるいは、草木の場合でも、咲いていた花は枯れても、その草木自体の実体に変わりはない。

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「諸君の力によって、地球民族主義の旗を高らかに掲げて、やがて国境のない世界連邦を築いていただきたい!」

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戦争は仏法で説く、「魔」の働きによるものであることを、強く実感するようになった。
「魔」は「殺者」「能脱命者」「破壊」などと訳され、煩悩など、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きである。
そして、この「魔」の頂点に立つのが、「第六天の魔王」である。それは「他化自在天」といわれ、他者を隷属させ、自在に操ろうとする欲望を、その本質としている。だが、「第六天の魔王」といっても、人間に潜む生命の働きなのである。この魔性の生命が人間の心を支配する時、人間は殺者や破壊者の働きをなし、戦争を引き起こしていくのである。
では、何をもって、この「第六天の魔王」を打ち破ることができるのか。
それは、ただ一つ、「仏」の生命のみであることを、仏法は教えているのだ。

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2016年5月24日火曜日

中国文明史余話 ~戦国の趙編~

戦国も末期に入るころに恵文王という名君が現れ、趙は遅い黄金期を迎えた。三人は共にその王によって大抜擢され執政まで登った人たちである。


・藺相如(リンショウジョ)
・廉頗(レンパ)
・趙奢(チョウシャ)


藺相如が宦官長の家人で、趙奢が地方の税務役人であったことを考えれば、恵文王がどれだけ身分に頓着せず広くから人材を求めていたかが伺えます。その中で、キラ星の如く登場した三人も本当に気持ちの良い人たちです。

既に秦による天下統一の動きが活発化する中で、超大国秦を恐れず、勇気で超の国威を守り抜いたのはすごいです。


この三人、いずれも胆力と勇気を共通語にしたいです。

それを支えていたのは、その能力を見抜き任せることのできた、まぎれもない恵文王の力(忍耐力)です。以下、著者の恵文王を褒める言葉から、三人を大抜擢した名君を偲びたい。

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恵文王の忍耐力は非凡であり、自身の決断を後悔しない精神のありかたはみごとであるというしかない。

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人を敦尚するという恵文王の思想が血のかよった政治を実現し、王朝の風通しをよくしたといえるであろう。

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恵文王は怒りたいときに怒らず、泣きたいときに泣かず、自制心と忍耐力にすぐれていた。

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「菜根譚」の条文にはこれを引用します。


第125条
  欲心の本体を認識(悪魔を照らす玉)そして忍耐力(悪魔を斬る剣)が必要。

「新・人間革命」11巻 開根の章

ブラジルからペルーへ。南米解放の英雄サン・マルティンの生涯に思いを馳せる。同行幹部が手分けをして、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアそしてドミニカなど各国を訪問し、本格的な開墾が始まったのである。各国で草創期のメンバーの苦闘の様子が綴られる。



信心について、

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人がどうあれ、自分が広宣流布のために苦労し、働いた分は、すべて自分の功徳となり、福運となっていくのが仏法です。人の目はごまかすことができても、峻厳な仏法の因果の理法は、絶対にごまかせない。
信心とは、妙法を信ずる一念であり、この因果の理法を信じ、生命のうえで実感し、生活のうえでわかることができるかどうかです。そして、広宣流布のために、生き抜いていく行動です。

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第一に、お題目です。

(中略)

だから、生命の底から安堵できるし、何も恐れる必要がない。悠々と、人生を楽しみながら、生き抜いていけばいいんです。

第二の要諦は教学です。

(中略)

一つの御文を、身で拝して、自分のものにすることができれば、自然に、ほかの御書もわかっていきます。すべてに通じていくんです。

第三の要諦としては、私は、信心の持続ということをあげておきたい。

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組織について、

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組織の活動の焦点は、ある時は布教であったり、ある時は教学であったり、絶えず変化していきます。それにつれて、大事だから始めたことであっても、ついつい忘れられてしまうことがある。だから、何があっても、そのことを考えて、責任をもつ人が必要なんです。すべて中心者が一人でやっていると、活動が多面的になればなるほど、行き詰まってしまうものです。

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敵について、

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人間は、自分を基準にものを考える。だから、自己の野心、野望のために生きている人間は、「無私」の人の存在を認めることができないのだ。そして、「無私」の人に対して、「無私」ゆえに、人びとの称賛と尊敬が集まると、我欲に生きる者たちは、強い反発と嫉妬をいだき、排撃の集中砲火を浴びせるのである。

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使命について、

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使命の自覚は、果敢なる行動となって、発芽していくものである。

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自分に今できること、それを広布の行動ととらえ、持続していくしかない。

2016年5月23日月曜日

失意の時こそ

今日を読み解く。



本日、読み返した新・人間革命11巻・暁光の章にて、

「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。」



また、戦国名臣列伝・屈原の章にて、

最盛期に衰亡の端緒がある、とは、まさにこれである。その戦いを境に、楚の命運は坂道をころがり落ちていく。」



最後に「菜根譚」にて、

第58条
  苦心のときに真の楽しみを見い出す趣を得
  得意のときに失意の悲しみが萌している。



これが私に与えられたメッセージとうけとめ、この失意の時を悠々祈り越えよう


中国文明史余話 ~戦国の楚編~

ここであげられているのは1人で、あの呉起が楚で志半ばで亡くなってからの楚である。よって旧習に戻り、退行の気配のある楚である。

・屈原

彼は、外交上の手腕者であるが、文学史上の巨星とみられる方が多い。なにせ、秦による天下統一に向けた亡国の悲哀も彼一人の詩に収まる程の代表者であるからだ。



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その切々と哀訴するような詩文の気息は、司馬遷の文章に影響をあたえたとおもわれる。

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外交上は、あの合従連衡の、連衡を唱える代表者、秦の張儀(楚で一度拷問にあい、恨んでいた)に負けたとも言えるでしょう。そのおかげ?で文学史上に永遠に残る哀しみに満ちた亡国の詩(楚辞)が完成したのです。

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清潔な身に汚れた物を衣せられてはたまらぬ。それならば、川のながれにはいって、魚の腹中に葬られたほうがましである。皓々たる白が、世俗のきたない黒をこうむってよいものであろうか

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屈原は我万物と一体なりとは感じれなかった。我独り行くの人であった。




「菜根譚」のこの条文を送ります。

第76条
  腐った土には草木が良く繁茂し、
  澄みすぎた水に魚はいない。
  君子は、雅量を持つべきで、
  潔白一点張りで我独り行くは狭量である。


「新・人間革命」11巻 暁光の章

1966年、3月10日、発熱をおしたまま伸一はブラジルへの飛行機の機中にあった。5年前と同じように。目的は、会員八千世帯を超える大発展をとげたブラジルの大文化祭に参加するため。しかし、待ち受けていたのは、日本で公明党を結成した宗教団体が海外にも政治結社を作るのではないかという偏見等に満ちた厳しい監視の目であった。地道な誤解を解く戦いは実に18年後に再訪を果たすまで続いたのであった。



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御本仏の御遺命であり、世界の「平和」と民衆の「幸福」を実現する広宣流布の道が、平坦であるはずがない。常に逆境であった。常に死闘であった。常に不可能と言われ、嘲笑を浴びせられてきた。だが、そのなかで、岩に爪を立てる思いで、険しき山を越え、嵐のなかを駆け抜け、栄光の勝利の旗を打ち立ててきたのが、創価学会の尊き歴史である。

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飛行機にしても、上昇する時には、抵抗も大きく揺れも激しい。だからといって、臆病になって、途中で引き返してしまえば、目的地に行くことはできません。しかし、上昇し続けていれば、やがて、安定飛行に入り、大空を悠々と進むことができる。

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学会の指導とは何か。
それは要約していえば、“御本尊に題目を唱え抜いて、自分自身を磨き高め、必ず幸福者になろう。そして、社会に貢献しよう”ということであります。

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皆様が幸福になるための信心です。私は、創価学会員には、『自分は最高に幸福者である』と言い切れる『幸福の証明者』にならねばならない責任があると思いますが、いかがでしょうか!

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牧口先生は『認識せずして評価するな』と言われたが、知らないということが、間違った評価を下す原因なんだね。相手のことがよくわからないと、デマなど、根拠のない話に飛びつき、憶測で評価し、全く見当違いな不安や恐れをいだいてしまうことになる。そして、その不安や恐怖心が、時には、非常に攻撃的な対処の仕方となって現れてくる

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勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。

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御書には、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せである。仏法は、自分の一念のなかに、大宇宙のすべての法が収まっていることを教えている。そうであるからこそ、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。
ゆえに、いっさいの結果をもたらす原因は、自己自身にあるととらえていくのが、一次元から見れば、仏法者の生き方といえる。

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喘ぎを平静に伏させるために、最高の幸福者の証明者となるために、今日もまた題目を唱え抜こう

中国文明史余話 ~戦国の魏編~

魏は超大国・晋が三分割されてできた当時としては新しい国。

ここで紹介されている1人は、かなり有名で


・呉起(呉子)


です。兵法書を書いているので兵略家として最も有名ですが、司法や行政にも優れ、法治国家をめざした改革者でもありました。その名から呉のイメージがどうしても出てきますが、呉は呉起が生れる30年前くらいに滅んでいます。衛で生まれ、魯で学び、魏に仕え、やがて亡命して楚に仕えました。

魏に仕えた時に、もっとも兵略の能力を発揮し、魏が戦国前期に昇天の勢いであったのも、彼の力による東部拡大(秦を攻める)があったと思われます。



ただし、彼の性格には問題があったと思われ、以下のエピソードが残っています。

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呉起は自分をそしった者を三十余人殺して、衛を出奔しようとしました。

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呉起の妻は斉の者であるから、呉起を斉軍と戦わせるのはどうか、と難色をしめしはじめたので、呉起は妻を殺して将軍になることを求めたという

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誇張された表現だとは思いますが、人となりが伺えるエピソードで、末期は、当主の後ろ盾が亡くなり、自分の改革によって土地を奪われた公族らに襲われ、当主の亡骸と一緒に弓矢で貫かれ果てたという、これまた壮絶なエピソードを残しています。亡くなる寸前まで仕返し(弓矢をいた者は当主を傷つけた罰で死刑となった)を考えたのだと、他の本では書かれていたのを思い出しました。



「菜根譚」で彼にふさわしい条文をさがしてみました。酷薄さが彼の禍を招いたと思われます。


第72条
  天地は気候が暖かであれば草木も生え、
  寒くなると枯れる。
  気性も冷酷だと天からの授かりも少なく、
  和やかで温情だと福徳も厚い。




最後に、彼は冷酷一方ではなく効果としての温かみは備えていたことを付け加えます。

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士卒のなかで最低の身分の者と衣食をおなじにし、卒と労苦をわけあった。兵卒のなかに疽(悪性のできもの)をわずらっている者がいれば、呉起は膿を吸ってやった。

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ポイントは心からということでしょうか。

2016年5月22日日曜日

「新・人間革命」10巻 桂冠の章

ヨーロッパから帰ると直ちに創価大学設立へむけた手を打っていく。構想を着実に現実のものに。記念撮影会を中心にして各地のメンバーの激励に全力を注ぐ。1966年1月にはハワイへ。2月には壮年部の結成を語り、3月には結成式を見たのだった。広布への布陣が構想から現実へ整っていく。



病気について、

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次の撮影までの間、伸一は、そのメンバーを懸命に励まし、病気の原因から語り始めた。
『大聖人は、病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引かれて、こう述べられています。『一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には座禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む』

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試練について、

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「人生というのは、試練との闘争といえる。幾つもの苦難の峰を越えてこそ、真の幸福がつかめるんです。ゆえに、苦労こそが、人生の財産です。自身を磨き上げる研磨剤です。だから、青春時代に、どんな困難に出合おうが、決して負けないで、堂々と進み勝ってください」

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逆境が人を不幸にするのではない。苦難が人を不幸にするのでもない。
自身に破れて、荒み、歪んだ心が、人を羨み憎む貧しき心が、人間を不幸にするのだ。

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信心について、

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花が美しく咲いているのは、大地に根を張って、養分を吸い上げ続けているからです。人間にも、成長のための養分が必要です
それが、生き方の根幹となる哲学であり、信心です。
表面的な華やかさや、刹那的な喜びに目を奪われて、自身を向上させることを忘れ、根無し草のような生き方になってしまえば、自分を輝かせていくことも、本当の幸福をつかむこともできません。

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壮年部について、

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学会は、各部が強調し合いながら進んでいくのは当然ですが、一家においても父親が柱であるように、最高責任者は壮年です。各支部にあっては支部長であり、各地区にあっては地区部長です。
したがって壮年部は、壮年の育成に責任をもつのは当然ですが、各部のなかの一つの部であると考えるのではなく、各部の調和をとり、責任をもって、学会を、会員を守っていただきたいのであります。

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壮年部には力がある。それをすべて、広宣流布のために生かしていくんです。
大聖人は『かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ』と仰せです。
死は一定です。それならば、その命を、生命の永遠の大法である、法華経のために捨てなさい。つまり、広宣流布のために使っていきなさい―――と、大聖人は言われている。
それこそが、露を大海に入れ、塵を大地に埋めるように、自らが、妙法という大宇宙の生命に融合し、永遠の生命を生きることになるからです。

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壮年部に上がろうとする今、10巻の最後を手を取り今一度読みなおす必要がある。また、今後も惰性に呑みこまれそうになるとき、10巻の最後を読み直して行こう。

「新・人間革命」10巻 新航路の章

やがては日顕の魔性の手により壊されることになる正本堂建立の供養の受付が行われた。伸一は、再びヨーロッパの激励行へ。訪問国はフランス、西ドイツ、イタリア、ポルトガルであり、ポルトガルでは大航海時代に思いを馳せる。


勇気について、

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仏法の世界は、すべて多数決というわけにはいきません。
初代会長の牧口先生は、宗門が軍部政府を恐れて、学会も神札を祭ってはどうかと言いだした時、敢然とそれを拒否しました。
宗門では、首脳たちが集まって協議し、神札を祭ることに決めたのでしょう。
しかし、たとえ、みんなで決めたことでも、大聖人の教え、精神に反するものであれば、それに従ってはならないというのが、仏法の考え方です。中心となり、基準となるのは、どこまでも“法”だからです。

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広宣流布の新航路を決めた、信念の勇者には、労苦の波浪は、決して障害とはならない。むしろ、波浪が高ければ高いほど、闘魂を燃え上がらせるものだ。

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「時は来ている。時は今だ。さあ、出発しよう!平和の新航路を開く、広宣流布の大航海に!」

真っ赤な夕日が、微笑んでいるように、伸一には思えた。

中国文明史余話 ~戦国の越編~

越は現在の浙江省辺りに起こった百越の起こした国。この本では、夏王少康の庶子を始祖とする伝説を採用。

越で挙げられている人は

・范蠡

で、かなり有名です。過去から積み上げてきたこの人のイメージをいうと、


淡泊で引際の絶妙な、世間的には最高に成功した人


です。内心はしるべくもないので、この時代に最も成功した人とのイメージが強いです。



呉と越の戦いは国語の漢文の教科書にもなるくらい有名ですので、改めて紹介しません。「臥薪嘗胆」といえばお分かりかと思います。この嘗胆の越王勾践を軍事的に補佐したのが范蠡です。よく時を見極め、呉王夫差への復讐を成し遂げ、呉を滅ぼしました。

ここからは、著者の言葉を借りて范蠡の意中を探ってみたいと思います。

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范蠡はこれまでの呉越の戦いをみてきて、内実が復讐に終始しており、果てしがないことを実感した。いま勾践が出師すれば、かならず勝てるであろうが、ふたたび夫差に怨みを植えつけ、数年後には復讐される。范蠡はそういう戦争を終わらせる戦いがしたいのであり、そのためには天意をうかがい、天意に従う必要がある。

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越王という人は、患難をともにすることはできますが、楽しみをともにすることはできません

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このように、時を見極め、非常に富貴に対して淡泊であり続け、財をなげうっては財をなして、天寿を全うしました。稀に見る成功者です。



「菜根譚」の以下二つの条文が彼にぴったりです。根底は「淡泊」たれ
82条に至っては現在の私のマイテーマでもあります。

第141条
  過失は一緒に責任をとり、手柄は自分ではないよう振舞え
  苦労は共にし、快楽は共にしないように




第82条
  竹林に風が吹いて騒がしいが、風がなくなると音がない
  雁が岸辺を飛んでいくが、雁去れば影がない
  事柄が起きたらそれに即応し、事が去ればサラリとする


2016年5月21日土曜日

中国文明史余話 ~戦国名臣列伝~

余話といいながら脱線甚だしく、春秋時代の内容が名前の由来や君主の系統に終始したため、ちょっと中だるみになりました。戦国時代はもっとエピソードが増えていることを願ってます!

いよいよ戦国時代に突入です。春秋時代との境はちょうど超大国の晋が韓・魏・趙へ三分割された時期にほぼあたります。そして、併呑合戦も進み、後半は戦国七雄(秦・韓・魏・趙・燕・斉・楚)に絞られます。滅亡順に読んでいこうと思うので、B.C.で明記すると、

呉:473年
蔡:447年
鄭:375年
越:333年
宋:286年
周:256年
衛:254年
魯:249年
韓:230年
魏:225年
楚:223年
趙:222年
燕:222年
斉:221年(秦の天下統一)
秦:206年

この中で、選抜されているのは

越(1人)・魏(1人)・楚(1人)・趙(3人)・燕(2人)・斉(2人)・秦(6人)

の16人です。秦が多いのは天下統一したわけだから仕方ないです。


ざっくりと著者による時代背景が書かれています。

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戦国時代を前・中・後とわければ、前期は魏の全盛であり、魏王は天子きどりであった。中期は斉と秦の二大王朝並立期といってよく、合従連衡のための権謀術数がさかんにおこなわれた。後期は秦のかぎりない拡大があり、各国の滅亡にともなう悲哀の色に満ちている。

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周に替わって王を唱え出した(それまでは王は周一人、その他は公・侯・伯・子・男のように上下が厳しかった)のがB.C.334年の魏と斉からですので、魏と斉がこのことからもかなり傲慢になっていたことが伺えますね。こう見ると秦はしたたかに天下統一を横取りしたのがわかります。戦国時代は王国の並び立つ時代とも言えそうです。

さあ、結果は秦の勝利とわかっていても、それを動かす人それぞれに勝敗はあります。そこを見ていきたいですね。



中国文明史余話 ~春秋の秦編~

秦は現在の陝西省を中心にした大国で、後に天下統一を果たした国。

ここであげられる1人は

・百里奚(五羖大夫)

で秦で覇者の一人とされる繆公を助けた名宰相である。名君、繆公の大抜擢があっての人でもあります。斉の管仲とどこか似ていますね。

名前や出身の説明に終始しているため、この方が亡くなった時の民の様子によって、人となりを知るしかありません。

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五羖大夫が亡くなったときは、秦国の男女は、涙をながさぬ者はなく、童子は歌謡せず、臼をつく者は杵のかけ声をやめた。これこそ五羖大夫の徳というものであった。

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春秋期の秦は野蛮なイメージがありますが、この頃には徳のかなりいきわたった政治が行われていたものと思われ、これを基礎に、のちにいち早く法治国家となってから、天下統一へと突き進むのです。

中国文明史余話 ~春秋の斉編~

斉は現在の山東省を中心にした大国。太公望を始祖とする由緒ある国。

史記の列伝の第二に併記される程の名宰相二人が上げられている。

・管夷吾(管仲)
・晏嬰(晏子)

この二人、エピソードが豊富で言わずもがなである。管仲の方は「管鮑の交わり」との故事にもなっている親友・鮑叔がいて初めて引き立つので鮑叔も大切である。

管仲と鮑叔は若き日は親友であり、その後二人とも斉に仕え、別々の公子についた。太子争いでは、鮑叔が勝つのであるが、この時、管仲もあわやのところまで後の桓公を追い詰めたのである。鮑叔はこの時、管仲でなければ覇は唱えられないと助命を要請し、自らは身を退いたのもすごいし、殺されかけた桓公が、管仲を許し、宰相としたのもすごい。三人が三人とも良いところを出し合って、この時代に斉は覇者となるのである。

晏嬰はもう少し後の時代の人で、孔子と同時代であり、儒教の考えとは反対にあった人のようです。すなわち、礼よりも民を重んじたと。孔子の学問がよく、支配者階級に利用されるのは上下を厳しくしたからで、晏子はその弊害を見破っていたのかもしれません。



この二人、大国にあって驕らず、民を重んじた点で一致しています。国を支えるのは民だと。
ただし、子産のように、民を賢くするという思想にまでは至っていなかったと思いますが。



斉はこの流れでいけば天下をとれたのではと思いますが、如何せん、晏嬰の子の時代に、田氏に君主の座を簒奪されてから芳しくなくなったようです。晏嬰は予見していたといいます。すごい二人です。

「新・人間革命」10巻 幸風の章

伸一のアメリカ行きが決まっていた矢先に、ロスで人種差別の抗議から暴動が発生。幹部からは見送るべきとの声があったが、今こそ激励するときとの思いで断行。ロス郊外での野外文化祭に出席し、全力で同志を激励した。アメリカの次は、戸田先生が生前とりわけ関心をもち、夢にまで見たメキシコへ。戸田先生の夢をまた一つ実現へ。



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日蓮大聖人は、『御義口伝』のなかで、『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり』と仰せになっております。
私どもが正法を流布していく姿は、まさに、いっさいの不幸の塵埃を払う、大風であります。

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伸一は、人間が人間を見下し、差別するという、魔性の心を打ち砕かんと、真剣な祈りを捧げた。

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人生には、さまざまな試練がある。病に倒れることもあれば、仕事で行き詰まることもある。その時に、悠々と乗り越えていくためには、生命の鍛錬が必要です。精神の骨格となる、信心への大確信が必要なんです。

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そんな自分の栄誉栄達よりも、はるかに大きく重要な、人間としての使命があることを、彼は自覚しつつあった。

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“広宣流布”に一念を定めた人は強い。人生の勝利も、成功も、知恵も、活力も、その一念のなかに収まっているからだ。

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特に、大きな悩みに直面している方は、五十万遍、百万遍、二百万遍と、真剣に、着実に、祈り抜いていくことです。
宇宙の根本法の御当体たる、最高の御本尊様です。なんで悩みが解決しないことがありましょうか。人生には、悩みはあります。しかし、それに負けているのは、自分の弱さに原因があるんです。

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つい、悩みが長期間にわたると惰性、疲労がでてくるものですが、今一度、負けないことが幸福と定めて祈りきっていきたい。師匠と心を合わせて広宣流布を使命としていきたい。


「新・人間革命」10巻 言論城の章

1965年元旦、沖縄で執筆を開始された「人間革命」の連載がスタート。聖教新聞も日刊化へ向けて準備が進む。伸一の激励もあり、晴れて7月15日付で日刊化が実現したのだった。海外にも機関紙の発刊が進む。

人間革命―――そこに、いっさいの原点がある。

根本をなしているのは、人間であり、自己自身であるからだ。

自分自身の生命の変革が、家族を変え、地域を変え、社会を変える。時代を変え、歴史を変え、世界を変える。



特に指導者論について、


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指導とは、この“わだかまり”を取り除き、勇気を与えることである。希望を与えることである。

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戸田先生は、『一度は 死する命ぞ 恐れずに 仏の敵を 一人あますな』と詠まれましたが、私どもは、人間を脅かす魔性の生命への追撃の手を、断固、ゆるめることなく、果敢に広宣流布に生き抜いていこうではありませんか!

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指導者には、力と知恵と責任がなければならない。どんなつらいことがあっても、それを乗り越え、頑張り抜く、責任感のある人物が、大指導者に育っていくというのが永遠不変の法則です。
また、後輩に対しても、自分以上の力をつけさせていける、雅量のあるリーダーでなければならない。それには、まず率先垂範だ。その姿、行動が、真実の触発をもたらしていくことは間違いない。ただ命令したり文句を言うだけの、権威主義の人物の下では、人は決して育たない。

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学会精神とは、浅きを去って深きに就く、一人立つ「丈夫の心」である。
殉難を恐れぬ、「死身弘法」の決意である。
間断なき「未曾暫廃」の持続の闘争である。
情熱と勇気の、「勇猛精進」の実践である。
いかなる難も、莞爾として耐え忍ぶ、「忍辱大力」である。
大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く、「如説修行」の行動である。
邪悪を許さぬ、「破邪顕正」の精神である。
正しき信心の血脈に結ばれた、「師弟不二」の道である。
堅固なる「異体同心」の団結である。
一人ひとりを仏を敬うがごとく大切にする、「当如敬仏」の心である。
この学会精神を伝えるには、どうすればよいのか――答えは明らかである。自らが行動することだ。精神の継承は、振る舞いのなかにのみある

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雅量のところでも紹介した部分ですね。

率先垂範とは、中々勇気がいることです。その勇気こそが魔性の生命を破るものであるからには、常に臆病の心との戦い、すなわち勇気こそ率先垂範です。


2016年5月20日金曜日

中国文明史余話 ~春秋の衛編~

衛は現在の河南省の一部を治めていた小国。戦国七雄以外の国で、秦に統一される直前まで残った長命な国。

ここであげられているのは二人

・石碏
・遽瑗(遽伯玉)


石碏は先君の意志をよく守って、いざというときに我が子をも殺した忠義の人。

大義、親を滅す

と後々まで讃えられた。



遽伯玉は孔子の友で孔子からも讃えられた人。

常に反省を忘れない有徳の大夫であった。




衛で一番印象に残ったのはこの二人というより、むしろ、この二人にも流れている名君、武公の精神。今でも切磋琢磨という言葉が残っているくらい有名です。


匪たる君子あり

切るが如く磋るが如く

琢つが如く磨くが如し



と臣民の方から詩をつくられるくらい慕われたそうです。

驚異的な努力で才徳を高めつづけて君主の理想像とされる人物。こんな君主がいたのですね。実に衛が最後まで国を存続しえたのもこの精神がどこかしらに脈打っていたのではないでしょうか。

中国文明史余話 ~春秋の楚編~

楚は現在の湖北省、湖南省の広い地域にまたがる大国。

ここであげられた二人は魯の?と違って確かに逸材です。

・屈巫(巫臣)
・蔿艾猟(孫叔敖)


が、とにかく家系の説明が長く、本人が活躍する話はわずかという事が多い。

屈巫は楚の荘王という覇者を補佐したほどの人物であるからすごいのだけれど、自分が一目ぼれした女性の取り合い合戦が主テーマとなっては太鼓判を押せません。荘王の死後は晋の臣下になりますし。その名の通り、巫術に優れていたようですので記憶には残るかもしれません。女性の取り合い合戦の末に一族を殺されて、それを恨むのもどうかと思いますが。


蔿艾猟は陰徳を積むことのできる人だったということは言えそうです。そして、長期的な視野を持ち、一族を栄えさせたのだから中々の人物だったのでしょう。
「陰徳有る者は、必ず陽報有り」とはの時代に成立した「淮南子(エナンシ)」という書物の文章から来ていることをしって少し得した気分にさせてもらいました。仏教用語とのみ思っていたのですが。

中国文明史余話 ~春秋の魯編~

魯は現在の山東省南部にあった晋・楚・斉の強大国に挟まれた小国。孔子がでたことで有名な国なのであるが、孔子は有名すぎて?あげられていない。

ここであげられたのは同じ家系の二人

・臧孫達(臧哀伯)
・臧孫辰(臧文仲)

臧孫辰は臧孫達の孫で、この二人、とりわけエピソードがないが、君主の政変が起こっても執政の地位にあり続けたということで掲載されたようだ。したたか者ということではないのか。

「歴史は臧孫達に対して寡黙である」とまで言わせた人を選んだ理由は、それだけ人物がいなかったのだろう。

臧文仲は孔子等からもバッシングを受ける人物であったようだ。なぜなら、賢人を登用しなかったからということで、先に上げた他国の人とは逆の人となりである。

よって、魯には残念ながら孔子以外にこれといった人がでなかったと考える。



「新・人間革命」9巻 衆望の章

日本では、東京オリンピックという華々しい出来事の陰で、民衆をないがしろにする貧困な政治が続いているという実態があった。そんな中、「大衆のなかに入り、大衆とともに語り、ともに戦い、大衆のために働き、大衆のなかで死んでいく」という覚悟の議員を衆議院にも送り出す必要を痛感。1964年11月17日、公明党が結成されることとなった。
12月、沖縄指導へ。太平洋戦争の悲惨な地上戦の舞台となったこの地から、平和の大波を起こさんとの誓いをこめ、「人間革命」の執筆に入る。


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どうすれば、同志の団結が図れるのか。
根本は祈りです。題目を唱え抜いていくことです。いやだな、苦手だなと思う人がいたら、その人のことを、真剣に祈っていくんです。
いがみ合ったり、争い合うということは、互いの境涯が低いからです。相手の幸福を祈っていくことが、自分の境涯を大きく開いていくことになる。

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広宣流布というのは、総体革命ともいえる。仏法の慈悲の思想を、生命の尊厳の哲理を、社会のあらゆる分野で実現していく作業であり、政治の分野の改革のために、私は公明党をつくった。

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嫌いな人のことを祈れる境涯。中々難しいですが、その人も自分の一部分と思えば、可能ではないでしょうか。すべてはつながっていて連関のもとで現実が作られている。嫌いな人も自分の嫌いな部分を顕現している人だと。


先生の人間革命の始めの執筆のところは、フロー状態に先生が入る部分が書かれていて非常に参考になります。頭の中で温めていたことと、実際に書いてみて留まるところと、それが感情とともに一つにつながった時のペンの速さ。こうして、先生は読むのも大変な膨大な活字量を、一つ一つ着実に綴って下さったんだと感無量です。

「新・人間革命」9巻 光彩の章

青年の先駆の中、伸一は学生部総会の席上で「創価大学」の設立構想を発表。10月2日からは、東南アジア、中東、ヨーロッパ訪問の旅に出発。東欧では、社会主義体制の矛盾について言及。



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一年目は、何があっても『そうですか、そうですか』と、みんなの言うことを聞くことです。そして、二年目には、『仏法の生き方では、こうです』『日本では、このようにやっていますよ』とだけ話しなさい。三年目になったら、今までの香港のやり方と、日本のやり方と、どちらがよいか、決めてもらうんです。

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『一家和楽の信心』であれば、家族が共通の根本目的をもつことができる。それによって、団結することができる。だから、一家が栄えていくんです。
広宣流布には、横と縦の二つの広がりが必要になります。友人から、また友人へ、仏法への理解の輪を広げていくのが横の広がりです。そして、縦の広がりというのは、親から子へ、子から孫へと、信心を伝え抜いていくことです。
どんなに広宣流布が進んだように見えても、一代限りで終わってしまえば、未来への流れは途絶えてしまう。信心の継承こそが、広宣流布を永遠ならしめる道であり、一家、一族の永遠の繁栄の根本です。

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人間は、ともすれば自分に負けてしまう。一時期は頑張っても、周りの人に信心を反対されると、すぐに臆病になってしまう。あるいは、病気になったり、少し生活が行き詰まったりすると、意気地なしになり、不信の心をもってしまう。また、ちょっとした、学会員との人間関係のもつれや怨嫉から、信心をやめたり、仏の和合僧というべき学会の組織から離れていってしまう。
そうならぬためには、自分の感情を中心にするのではなく、あくまでも、仏法の教えを、御書を根本にして生きていくことです。

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悩みがあるからこそ、真剣に、広布の活動に励めたといえる。学会のリーダーとして、最も重要なことは、悩みに負けないということだ。これが一番の条件だ

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私たちが今なそうとしていることは、人間革命を機軸とした総体革命だ。わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。
そして、政治や経済に限らず、教育、科学、文化、芸術など、人間のもたらすいっさいの所産を、人間の幸福のためのものとしていく作業である。

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何ごとにつけても、その感謝の心は大切だね。感謝があり、ありがたいなと思えれば、歓喜がわいてくる。歓喜があれば、勇気も出てくる。人に報いよう、頑張ろうという気持ちにもなる。感謝がある人は幸せであるというのが、多くの人びとを見てきた、私の結論でもあるんです。

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―――かくも美しく、オーロラは輝く。宇宙は、こんなにも輝きに満ちている。小宇宙である人間もまた、本来、まばゆい光に満ちているはずである。その人間の光彩をめざして、人間のなかへ、生命のなかへ、私は励ましの旅を、断固として続けよう。
人類の闇を開くために、輝ける人間の勝利の時代を開くために―――。

2016年5月19日木曜日

中国文明史余話 ~春秋の宋編~

宋は現在の河南省にあった殷の末裔の国。晋の重耳に恩を施したことから、晋と楚という強大国の狭間で、常に晋側に立って楚と争った。最終的には斉に滅ぼされた。

ここであげられたのは一人だけ

・楽喜(子罕)

あざなをシカンと呼びますが、これが中々さっぱりとした好男子。春秋時代の傑物同志はある程度交流があると見え、先に絶賛した晋の子産、子皮、斉の晏子、魯の孔子等と同時代の人で、うわさは互いに通じ合っていたのではと思います。それがまた身の処し方にも表れたのではと。



エピソードをそのまま紹介した方が人となりを感じやすいかと思います。

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宋人が美しい玉(礼器に使われる格式高い石のこと)を手に入れたので、尊敬する子罕に献上にきた。ところが子罕は、
「要らない」
と、ことわった。心外におもったその人は、
「これを玉人(玉みがき)にみせたところ、宝であるといいました。本物であるので、献上にきたのです」
と、いった。偽物ではない、と訴えたのである。子罕は眼前にすわっている者に不純な心をみなかったので、さとすようにいった。
「わたしは貪らないことを宝としている。あなたは玉を宝としている。すると、わたしが玉をうけとると、両方が宝を喪うことになる。それぞれに宝があったほうがよい」

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なんと痛快なエピソードでしょうか。子罕はただの潔癖ではなく、実力十分な人間でした。富貴の中にあって貪らないのは並々の人ではありません。

「菜根譚」のこの条文を送ります。

世ヲ済ヒ邦ヲ経ムルニ、段ノ雲水的趣味ヲ要ス、若シ一タビ貪著有ラバ、便チ危機ニ堕チン

この辺のことをよく、同時代の諸子の行いやそれ以前の道徳書で学んでいたのでしょうね。子罕もまた長編小説があったら読んでみたい一人です。

追記>
「菜根譚」78条に古人は貪らないことを宝としたと。この逸話をさしていたりして。

故二古人ハ貪ラザルヲ以テ宝ト為シ、一世ヲ度越スル所以ナリ

中国文明史余話 ~春秋の鄭編~

鄭は現在の河南省に位置した小国。春秋時代は荘公という名君を得、覇を唱える程の強国であったが、次第に晋と楚という強大国に挟まれ弱体化していった。

ここであげられる2名はともに名君を支えた名宰相である。

・祭足(祭仲)
・国僑(子産)

宮城谷昌光氏長編の方が面白いかもしれません。知識が膨大すぎて短編だと説明で終わってしまうのです。祭足についても祭の字の由来から入り、祭足を重用した荘公のエピソードが目立ちすぎて、中々人物像が結ばれてきません。この時代の人たちは、他の人のエピソードで引き立てられることが多いこともあるでしょう。

荘公は逆子で生まれたことから生母から嫌われ続けます。弟が溺愛されるのですが、それによる弟の僭越も目をつぶり続け、とうとう戦争を起こした時に、生母もまた加担していたのでした。母親を幽閉した後も自分から会いたいとついに二人は仲直りを果たしたというエピソードは感動的です。祭足は生母や弟の行状を諫言できた賢臣であったことは確かですが、戦争を回避できたわけではありません。後のエピソードはしたたか者の匂いがします。

「不義をかさねれば、かならず自滅する」


の荘公の言葉こそ「菜根譚」の次の条文にも合致するものです。


敧器(キキ)ハ満ヲ以テ覆ヘリ


敧器は金属製の容器で、物を一杯入れるとひっくり返るようにできているため「満つれば欠ける」といって訓戒の例とされます。




子産は・・・ でましたまさに民衆の見方である賢人が。でも、これも彼を採用した子皮とその君主、簡公をほめることによって薄れています。子産はいつかきっと長編小説で読みたいですね。中国史上最初に国民へ法律を示した人でもあるそうです。それまでは、従うのみだった国民を賢くしたのは間違いなく子産のおかげでしょう。

簡公が名君なのは、父殺しに連座して殺されるはずだった子産を恨まなかったこと、子皮は彼を抜擢したことです。孔子からは、

「賢人を進める人がほんとうの賢人である」と讃えられました。

まさに活躍の機会を与える人こそ、人物が大きいともいえそうです。影の戦いに徹する。素晴らしい人材が鄭にはいたのですね。小国だったのが残念。


「新・人間革命」9巻 鳳雛の章

山本伸一が「本門の時代」の出発にさいし、国内で初めに着手したこと。それは、高等部、中等部、少年部という未来の人材の泉を掘ることであった。これにより、二十一世紀へ創価後継の大河の流れが一段と開かれたのである。

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広宣流布の決意という面では、殉難の覚悟が必要です。遊び半分では、尊き世界の平和を築くことも、不滅の民衆の時代を開くこともできない。
広宣流布の活動というものは、権力の魔性との厳しき戦いであり、人生をかけた、断じて負けられぬ、真剣勝負の戦いであることを、申し上げておきたい。

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一人の人間が、本当に真剣な信心に立ち、生命力強く、英知を輝かせていけば、一家も、一族も、大きくいえば、一国も変えていくことができる。
戦争といっても、本当の要因は人間の心にある。人間の支配欲、征服欲、権力欲、憎悪、怨念等々から起こるものです。だから、平和といっても、人間革命が根本になる。
また、最近、深刻になっている公害も、現代人の欲望の産物です便利さ、豊かさばかりを追い求め、自然との調和を忘れた人間の生き方に、その大きな原因がある。
依正不二という考え方に立つならば、結局は、環境の破壊は、人間自身の苦しみに繋がることは明らかになる。

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人間は、年とともに、権力に心を奪われ、自分の地位、立場などに強い執着をもち、名聞名利に流されていく。『自己中心』になっていくものです。
すると、信心をもって、団結することができなくなる。それでは、どんな学会の役職についていたとしても、信心の敗北だ。信心というのは、この『自己中心』の心との戦いなんです。

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「師子身中の虫の師子を食」の講義では、次のように強調している。
「この御書にも『仏弟子等・必ず仏法を破るべし』と仰せのように、広宣流布を破壊していくのは、外的ではなく、“師子身中の虫”です。
たとえば、最高幹部であった者が、野心から、あるいは嫉妬から、学会を裏切り、造反し、躍起になって攻撃しようとする。それと戦い、学会を守っていくのが諸君です。
また、絶対に、“師子身中の虫”になってはならないし、諸君のなかから、“師子身中の虫”をわかしてもならない。
“師子身中の虫”というのは、造反者だけではありません。
仮に、立場は幹部であっても、堕落し、怠惰、無気力になったり、虚栄を張って見栄っぱりになり、すなわち自己中心主義に陥り、一念が広宣流布から離れていくならば、”師子身中の虫”です。そうした幹部がいれば、みんながやる気を失い、学会は蝕まれていく。怖いのは内部です。恐ろしいのも内部です。

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私がこれほどまでに期待しているのに、もし、諸君に広宣流布の総仕上げをしていこうという心がなく、団結もできないようならば、それは、もはや諸君が悪いのではなく、私の方に福運がないんだ。

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賢人とは、自分で自分をリードしていける人のことです。健康管理は、自分の知恵で行っていくしかない。

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全てを自分の方に向ける。一人が一体どれほどのことができるのか。大河の一滴ではないのか。いや一滴がやがて大河となる。それを先生は教えて下さる。私の一念で国や世界のことまでも包み込んでみせる。そんな祈りでありたい。

「新・人間革命」9巻 新時代の章

戸田先生の七回忌を遺言である会員三百万世帯の達成と、大客殿の建立寄進の実現で迎えた。そして、社会に実証の華を咲かせていく「本門の時代」に入ったことを宣言。向こう七年の活動として、会員六百万世帯の達成と、正本堂の建立寄進を誓う。公明政治連盟も自立へ向けて一歩前進させることに。間髪入れず本門の時代の開幕を告げる海外訪問へ飛び立つ。訪問国はオーストラリア、セイロン、インドと今なすべきことを着実にこなしていくのだった。


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彼は、形式のみに目を奪われるのではなく、戸田の精神に立ち返って、師の言葉にこめられた深甚の意義を見極め、その実現のために全力を傾けてきた。

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創価学会は、どこまでも宗教団体として、宗教活動に、折伏行に邁進し、公政連の支持団体、推薦団体として、その活躍を見守ってまいりたいと思います。
それは、創価学会としての“政教分離”への宣言でもあった。

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すべてに裏があるかのように考え、崇高なものを卑小化してとらえる日本の風土は、精神の貧困さの反映といえまいか。その誤った認識を打ち砕くには、それぞれの分野にあって、着実に実績を積み上げていく以外にない

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何ごとにも平坦な道はない。しかし、苦労があるから強くなれる。苦難がまことの信仰を育む。労苦が魂を鍛える。嵐に向かい、怒涛に向かって進んでいくのが、広宣流布の開拓者だ。

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一人ひとりを、自分以上の人材に育て上げていけばよい。そして、同志を着実に増やしていくことだ。

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仏法は道理であり、罰があったということは、正しい信仰を貫くならば、必ず功徳を受け、幸福を実感できることだと、懇々と指導してくれた。

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海外訪問にて、

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ネルーは、「人のために働いて、働いて眠れぬ夜を何日過ごすかが大切だ」との言葉を残しているが、これこそ、真正の指導者の心であろう。

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今なすべきことを、今なし、今日やるべきことを、完璧に仕上げていく―――この現実の地平の彼方に、山本伸一は、世界平和の旭日を見ていた。

2016年5月18日水曜日

中国文明史余話 ~春秋の晋編~

晋は現在の山西省付近にあった春秋時代に最も強力だった国である。それだけに、分家が本家から主権を奪ったり、戦国時代に入る直前には有力な六氏の間で権力争いがあったりと大変です。

上げられている5人の名は

・士蔿(子輿)
・狐偃(子犯)
・郤缺(郤成子)
・キ奚
・師曠(子野)



いずれも献公が晩年、寵愛する女性の子を後継ぎにしようとしたために起こった争乱期の人たちで、私にしてみれば陰謀家の匂いもしてあまり頭に残らなかったです。

叔向という直言の士がいて初めて後半の二人は光る存在となりえるため、叔向をあげるべきではなかったでしょうか。

狐偃と郤缺はよく耐え忍ぶといった印象でした。誰しも何か裏がありそうで、強大国ならではのかけひきを感じました。有名な重耳という大器晩成の君主を育て上げた狐偃が頭一つ飛び出た存在と思われます。

この時代に忍耐力は並々ならぬものが必要だったでしょう。

「菜根譚」でも忍耐力は魔を斬る利剣といっています。





中国文明史余話 ~春秋の呉編~

呉は現在の蘇州周辺を支配し、6代王の闔閭の時に二人の名臣、

・伍員(伍子胥)
孫武(孫子)

を得て強大国・楚を滅亡寸前まで追い込み覇を唱えた国である。
本に紹介されているもう一人は、闔閭の叔父にあたる

・季札(延陵の季子)

である。

実に呉も他国に劣らず権謀術数が多く、ここでのエピソードも従来は楚に仕えた一族で、父と兄を楚王に殺されたために復讐を誓い、呉に亡命した伍子胥の物語が中心である。孫子の兵法として今なお知られている孫武の方は、名が上げられるわりには伍子胥が推薦した人という程度で物語性は少ない。伍子胥は痛快に復讐を果たすのであるが、既に死んでいた楚王の墓を暴いて屍に鞭を討ったとあるから酷です。

やはり、怨みに対し怨みを以て対処すれば、業を積むらしく、闔閭の子の夫差からは越を滅ぼすための献言も受け入れられず、自殺に追い込まれます。夫差はこの時のことが仇となり、反って越に滅亡させられる君主です。

この三人の中で一番有名とは言えないのが季札ですが、軍配は彼に上がりそうです。名君だった父から、兄弟の順を越えて王になるのを進められた程の知識人ですが、節義を守り固辞し続けて、最終的には甥にあたる闔閭が兄弟から王権奪取したことも認め、長寿を全うしました。この時代に謙譲の心こそ命を保つには必要だったのかもしれません。


「菜根譚」にもこういう条文があります。

径路ノ窄キ処ハ、一歩ヲ留メテ歩ヲ人ニ与ヘテ行カシム。

まさに季札の取った行動です。伍子胥は有名ではありますが、無くなる直前の内心は穏やかではなかったでしょう。かつて紹介した「菜根譚」のこの条文を送りたいです。

第70条
  喜神(喜ぶ心や感謝する心)を養い、福をまねくのみ。
  殺機(人を害そうとする心)を除いて、禍を避けるのみ。