2016年5月7日土曜日

仏法と菜根譚 その①

日蓮大聖人の仏法が至高なのは言うまでもありませんが、そこに至るそれ以前の教えも、一部分の悟りを教えたもの(部分観)として、否定されるものではありません。

菜根譚の思想も、儒教、道教、仏教が入り交ざって良き道徳を教えています。仏法は道理であることを考えれば、相通じていると言えましょう。



今後暫くは、仏教観が現われている「菜根譚」の条文を抜粋し、紹介していきたいと思います。



第45条
  人々は本来皆大慈悲心(仏の徳性の一つ)を持っている。
  両者を隔てているのは、欲情に迷わされているかどうかの差で、
  それが雲泥の差を生んでいる。






日蓮大聖人の御書にもこうあります。

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衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり

日蓮大聖人御書全集 一生成仏抄 384ページより
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同じ鏡の比喩を使った「菜根譚」の箇所もあります。





第150条
  水は波を立てなければ本来静かである。
  鏡は曇っていなければ本来明かである。
  雑念や妄念を去れば誰でも清浄心は現
  われ、求める必要はない。





以上、共通した例えがあらわれていて、仏教思想が広く流布していたことを伺わせます。私たちもこの共通の財産を胸に蔵して日々苦しくなったらこれらの言葉に立ち返るといいのではないでしょうか?




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