2016年5月23日月曜日

中国文明史余話 ~戦国の魏編~

魏は超大国・晋が三分割されてできた当時としては新しい国。

ここで紹介されている1人は、かなり有名で


・呉起(呉子)


です。兵法書を書いているので兵略家として最も有名ですが、司法や行政にも優れ、法治国家をめざした改革者でもありました。その名から呉のイメージがどうしても出てきますが、呉は呉起が生れる30年前くらいに滅んでいます。衛で生まれ、魯で学び、魏に仕え、やがて亡命して楚に仕えました。

魏に仕えた時に、もっとも兵略の能力を発揮し、魏が戦国前期に昇天の勢いであったのも、彼の力による東部拡大(秦を攻める)があったと思われます。



ただし、彼の性格には問題があったと思われ、以下のエピソードが残っています。

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呉起は自分をそしった者を三十余人殺して、衛を出奔しようとしました。

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呉起の妻は斉の者であるから、呉起を斉軍と戦わせるのはどうか、と難色をしめしはじめたので、呉起は妻を殺して将軍になることを求めたという

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誇張された表現だとは思いますが、人となりが伺えるエピソードで、末期は、当主の後ろ盾が亡くなり、自分の改革によって土地を奪われた公族らに襲われ、当主の亡骸と一緒に弓矢で貫かれ果てたという、これまた壮絶なエピソードを残しています。亡くなる寸前まで仕返し(弓矢をいた者は当主を傷つけた罰で死刑となった)を考えたのだと、他の本では書かれていたのを思い出しました。



「菜根譚」で彼にふさわしい条文をさがしてみました。酷薄さが彼の禍を招いたと思われます。


第72条
  天地は気候が暖かであれば草木も生え、
  寒くなると枯れる。
  気性も冷酷だと天からの授かりも少なく、
  和やかで温情だと福徳も厚い。




最後に、彼は冷酷一方ではなく効果としての温かみは備えていたことを付け加えます。

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士卒のなかで最低の身分の者と衣食をおなじにし、卒と労苦をわけあった。兵卒のなかに疽(悪性のできもの)をわずらっている者がいれば、呉起は膿を吸ってやった。

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ポイントは心からということでしょうか。

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