釈尊と日蓮大聖人の関係性をいうと、釈尊予言の通り、1000年単位で正法、像法、末法と時代が変わり、釈尊の法華経の功力が及ぶ時代を正法、形骸化していく時代を像法、功力が失われる時代を末法(現代もこの延長上)という。末法には法華経を新たに復活させる法華経の行者が現われて法華経を流布すると予言されているが、その人物にあてはまる方が日蓮大聖人だったわけである。末法の法華経は、よって釈尊在世当時とは修行法が異なる。南無妙法蓮華経の題目こそ現代の修行法である。それを戦後復活させたのが創価学会なのだ。
****************************
彼は、釈尊に思いを馳せた。人類を生命の光で照らし出した聖者の生涯が、臨場感を伴って、伸一の脳裏に浮かんだ。
****************************
仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものがあることは興味深い。
(中略)
そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。それは、己心の激しい葛藤劇であったととらえることができる。
釈尊は迷い、心は千々に乱れた。体力も消耗し、衰弱のなかで、死への恐怖もわいてきたのであろう。また、あの激しい苦行からも、何も得られなかっただけに、今の努力も、結局は無駄ではないかという思いも、頭をもたげてきたであろう。
ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。
魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって心をさいなむこともある。
(中略)
魔は「親の想を生す」といわれるが、往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。
だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。
「悪魔よ、怯者はお前に敗れるかもしれぬが、勇者は勝つ。私は戦う。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」
すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。
辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。
****************************
似たような経験が私にもあります。そして、敵に塩を送り続けると決断したとたん、釈尊と同じく平静をとりもどすことができたのです。魔との勝負は、先に紹介したことのある魔の率いる十軍と戦うことです。魔を見破ってしまえば、後は忍耐が魔を斬る役目を果たしてくれるのです。
****************************
彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにもかけ離れていた。
(中略)
彼は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。
(中略)
ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思いとどまらせようとする、己心の魔との戦いと解せよう。
釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。
彼は悩み、迷った。魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間隙を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。
「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。
仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人びとに法を説くように懇請したとある。それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。
彼は、遂に決断する。
“私は行こう!教えを求める者は聞くだろう。汚れ少なき者は、理解するだろう。迷える衆生のなかへ、行こう!”
釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。一人の偉大な獅子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。
*****************************
そう、悪魔の囁きと同時に仏からの懇請もあるはずなのである。仏と魔軍との攻防こそが人生であるからだ。
*****************************
彼らは、事態の深刻さが理解できていなかった。悪と戦うことをためらう、その感傷が、多くの仏弟子を迷わす結果になることが、わからなかったのだ。それは、すべての人を成道させようとする、釈尊の大慈悲を知らぬがゆえの、迷いでもあった。
*****************************
釈尊の教えの根本は、何ものにも紛動されない自分をつくることであり、戒律はあくまでそれを助けるものにすぎない。
*****************************
“正義”が“邪悪”となり、“邪悪”が“正義”と見えるように仕向ける、提婆達多の巧妙なトリックが功を奏したのである。
*****************************
結局は提婆達多は見破られますが、現代の病根も提婆達多のトリックと酷似していることは指摘しておきたい。善悪が逆になっているこの本末転倒のトリックを。仏の前にはすべて明らかになっていくのだが。
0 件のコメント:
コメントを投稿