池田先生が戸田先生の事業が最も苦境だった時に一緒に埼玉県大宮を訪れた時のことを回顧しています。生命力について、
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人生の勝負は、一時の浮沈ではなく、十年、二十年、あるいは、一生という流れのなかで明確になるものであることを述べるとともに、生命力の大切さを語った。
「人生には、山もあれば谷もある。そして、同じ道であっても、強い生命力がある人は、悠々と歩いていけるものです。ある時は桜の花を見て、また、途中でオニギリを食べ、坂道も楽しみながら、朗らかに進んでいくことができる。しかし、生命力が弱ければ、疲れきって、周りの風景も目に入らず、苦しみしか感じることができない。
私たちは、この世界に、楽しむために生まれてきました。それには生命力が必要であり、その源泉が唱題です。ゆえに、皆さんは、唱題を根本に、人がどう見ようが、どう言おうが、自分自身はこう生き抜くのだと決めて、堂々と信心に励んでいってください。その人が幸福者なのです。そして、“ああ、楽しいな”といえる人生を、また、支部を築いていっていただきたいのであります」
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本日の聖教新聞にも池田先生からこのような御文が贈られていました。
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一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文・あに自受法楽にらずや
聖教新聞 御書と歩む より
****************************楽しむために生まれてきたのです。その楽しみとは世間一般の快楽と違って、自身の中に仏性を感じる法楽です。この点が、日蓮仏法の凄いところであり、肝心です。
又、功徳と罰について、折伏について、財務について、
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彼は、功徳と罰について語っていった。
「ご本尊には、『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』、また『若し悩乱する者は頭七分に破れん』とお認めであります。これは、御本尊の偉大なる功徳を示されているとともに、正法を誹謗するならば、罰があることを示されております。
仏法は生命の因果の法則であり、幸福への方程式です。その法則を否定し、逆らうならば、当然、行き詰まらざるをえません。ゆえに、正しく、力のある教えであるならば、功徳と罰という二つの現証が必ず生じるんです。
また、大聖人は、この功徳について、『悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり』と、仰せになっています。これは、自身の生命の悪を滅して、善を生じていくことが功徳であるとの意味です。
つまり、功徳といっても外から与えられるものではなく、自分の生命のなかから、泉のごとくわき出してくるものです。そして、依正不二という仏法の原理で、自分の環境を変え、幸いを万里の外から集めることができるんです。
さらに、人の悪を滅し、善を生じさせていく行為が折伏です。ゆえに、折伏を行ずること自体が、人に功徳の道を開くことであり、同時に、それによって、自分自身も功徳を受けていくことになります。これが日蓮仏法です。
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学会の財務は、世間一般の寄付とは違う。どこまでも、信心から発するものでなければならないからである。そして、この燃え上がる信仰がある限り、無料の功徳が現れないはずはない。日蓮大聖人が、御称讃されないはずはない。彼は、できることなら、より多くの同志に、供養の機会を与えたいとお思った。
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池田先生は戸田先生を、我々は池田先生を師と定めて、唱題根本に、自身の生命状態をわきまえながら今日も一歩進むのみ。
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