2016年5月25日水曜日

「新・人間革命」11巻 常勝の章

北南米訪問を終えた伸一は、班長、班担当員など、第一線で活動に励むメンバーとの記念撮影、激励に日本各地を回り始めた。1966年、9月18日。伸一を迎えた関西の友は、関西文化祭を雨の中決行。歴史に残る文化祭となった。この頃、海外のメンバーもいるベトナムで、戦争が深刻化し、11月の青年部総会では世界へ向けて和平宣言を行うなど使命を果たし続けた。



最近の聖教新聞から、

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負けじ魂を満天下に示したのが、兵庫・西宮の阪神甲子園球場で開催した、あの「雨の関西文化祭」であった。
台風接近の影響による激しい雨がグラウンドを打ち付ける中、わが関西の青年たちは、試練の逆境をはね返し、偉大な人間賛歌の舞台に変えた。
その常勝不敗の魂は、半世紀を経た今も脈々と流れ通っている。

2016年5月9日 「聖教新聞」 永遠なれ創価の大城 より
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関西文化祭、またそれ以前において、

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偉業というものは、称賛も喝采もないなかで、黙々と静かに、成し遂げられていくものといえる。

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山本伸一は、法華経の湧出品に説かれた、「如蓮華在水」の文を、眼前に見る思いがした。この文は、地涌の菩薩がよく菩薩道を行じて、世俗に染まらぬさまを、泥沼のなかにあって清らかな花を咲かせる、蓮華の姿にたとえたものである。
彼は、皆が、今日の決意を忘れることなく、自らの使命に生き抜く限り、生涯、何があろうが、いかなる環境に置かれようが、必ず幸福の花を咲かせるにちがいないと、確信することができた。

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学会精神とは―――人びとの幸福のため、世界の平和のために戦い抜く、慈悲の心である。何ものをも恐れず、苦難にも敢然と一人立つ、挑戦の心である。断じて邪悪を許さぬ、正義の心である。

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“陰の力”としての役割を担ったメンバーが、どれほど使命を感じ、誇らかに、生き生きと、作業に励んでいるかに、実は、その催しの意義の深さと、その団体の真価が現れるといえよう。

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ベトナム戦争において、

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「三諦」を生命論の立場から述べると、「空諦」とは、目に見えない性分であり、主に心、または精神作用にあたる。心や精神は「空」であって、有でもなければ無でもない。冥伏して、縁に触れて現れる不可思議な実在である。たとえば、人間の怒りにせよ、何かを契機にして、込み上げてくるが、やがてその感情は去ってしまう。
また、「仮諦」とは、主に物や肉体、姿、形、その活動の面をいう。それは種々の条件の組み合わせにより、仮に成立し存在している。ゆえに、花もいつかは散っていくのである。
さらに、「中諦」すなわち「中道」とは、生命の本質、本体、または生命の全体をいう。
生命は、心という「空」の面と、肉体という「仮」の面を兼ねそなえながら、どちらにも偏らずに存在しており、それらを貫く、生命の本源、本質が「中」なのである。怒りを例にとれば、人は怒っていない時でも、怒りは心のなかに冥伏しており、怒りの生命そのものがなくなってしまったわけではない。あるいは、草木の場合でも、咲いていた花は枯れても、その草木自体の実体に変わりはない。

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「諸君の力によって、地球民族主義の旗を高らかに掲げて、やがて国境のない世界連邦を築いていただきたい!」

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戦争は仏法で説く、「魔」の働きによるものであることを、強く実感するようになった。
「魔」は「殺者」「能脱命者」「破壊」などと訳され、煩悩など、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きである。
そして、この「魔」の頂点に立つのが、「第六天の魔王」である。それは「他化自在天」といわれ、他者を隷属させ、自在に操ろうとする欲望を、その本質としている。だが、「第六天の魔王」といっても、人間に潜む生命の働きなのである。この魔性の生命が人間の心を支配する時、人間は殺者や破壊者の働きをなし、戦争を引き起こしていくのである。
では、何をもって、この「第六天の魔王」を打ち破ることができるのか。
それは、ただ一つ、「仏」の生命のみであることを、仏法は教えているのだ。

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