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2017年2月25日土曜日

中国歴史小説 ~楽毅④~

いよいよ最終章。彷徨ったのち、燕の卿に昇った楽毅が斉の70余城を落とすシーンがメインと思いきや…。割かれたページ数も少なく、意外と淡々とした描写であり、そこまでの経緯の方に力が注がれていたなと感じました。
それでも痛快ではないですか。わが身の不遇にあてはめて、歴史上の人物が逆転劇を成し遂げるシーンというものは。私にも春がそろそろきそうです。我ながら引際は歴史に叶っていたと思うのです。反転攻勢のこのときに「楽毅」の最終章を読破でき光栄です。

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ついに中山国は滅亡した。祖国を失った楽毅は趙の主父から仕官の誘いを受けたが、折しも王位の継承をめぐり趙では内戦が勃発。主父は無惨にも餓死に追い込まれた。諸国を転々とし雌伏のときを過ごしていた楽毅の前途に光明がさす。楽毅の将才を高く評価する燕の昭王が三顧の礼で迎え、大望を託そうとしていた……。三国志の諸葛孔明、劉邦らを魅了してやまなかった名将を描く歴史巨編。

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そして抜粋、

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学問をする者は、年齢にかかわりなく、童子のような純粋さをもって師に仕えなければ、教義の深奥をのぞきこむことはできない。

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人は不運ゆえに、胆知を練り、知恵を育てる。幸運のつづく者が、そんなことをするか。

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失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。

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外交は生き物であり、どう変幻するかわからない。人も国も夢幻と化しやすいこのときに、すべてに不信のまなざしをなげかけていては、正気を保っていられない。

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賞罰は戦いに勝つための助けになるが、もっとも重要というわけではない。そのほか、権、勢、謀、詐も、勝利への補助にすぎず、孫臏がもっとも需要であると考えたのは、、であった。

信なる者は昌え、兵を窮むる者は亡ぶ。

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――引いて勝つ

ということがわからなかったのではないか。

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わかるということは教義を心身におさめることで終わりではなく、挙措進退に、日常と非常に、活かすことでなければならない。まずそれを知ることから、人の深化がはじまるといってよい。軽々しい理解のしかたをする者は、おのれの深化のための端緒をつかめないまま、時勢にながされてゆくだけであろう。

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私が常に大切にしているのは「引いて勝つ」ということ。その時は負けたような姿をさらす勇気が大切だと。引けばその反動を利用して勝つことができるのだ。

2016年6月27日月曜日

中国歴史小説 ~楽毅③~

ちょっとずつ、ちょっとずつと思いながらも重なれば一巻。第三巻も楽毅は「燕」に入らずにしまいました。全四巻のうち前三巻は「趙」の歴史が分かりやすく書かれているといったほうがいいですね。宮城谷昌光氏「孟夏の太陽」というタイトルで「趙」の始祖のことも小説に書いており、格別「趙」びいきであるようです。これを読んでいると戦国前期は「魏」が強く、中期は「秦」と「斉」の二強とまとめられていた歴史が、「趙」にも天下統一とはいかないまでも北半分を版図にする勢いがあったことがわかります。武霊王の知略と武略によるところが大きいですが、その後の恵文王も別の角度から国を富ませました。ただし、この引継ぎが、武霊王を餓死に追いやってという暗さが残ります。それが、第三巻の見どころです。

大胆にして細心の武霊王は賢人といえそうですが、なぜか名君になれなかったのは細心の部分が狡猾であったからだと感じました。細心はどこまでも真心でありたいものです。


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中山国はこの世から消え去るのか――。隣国趙と成立した講和は一方的に破棄され、趙の苛烈な侵攻は再開した。中山国の邑は次々に落ち、そのさなか中山国王も没した。そして首都の霊寿もついに陥落する。東西の辺土を残すのみとなった祖国の存続をかけ、楽毅は機略を胸に秘め、戦火の消えぬ中山を離れ、燕へと向かった。抗い難い時代の奔流のなか、楽毅はなにを遺そうとしたのか。

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大切と思われた箇所、

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世論にも歴史にも、勢いとながれがある。それをみきわめただけでは故事を学んだことを活かしきったとはいえない。勢いとながれを自分でつくりだしてこそ、学んだことを活かしたといえるのである。ただし、それができるのは、万人にひとりか。

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まえをみずぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみずぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。目的がなければ努力をしつづけにくい。が、人が目的をうしなったときに、目的をつくるというのが、才能というものではないか。平穏無事を多数とともに満喫しているようでは、急変の際に対応できず、人の生命と財産を守りぬけず、輿望をあつめることはできない。

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不遇や閑時にこそ勉学をと歴史は教えてくれています。晴耕雨読。今日も雨降る、本を読む。何時か反動を利用して勢いをつけるべく。

2016年6月24日金曜日

中国歴史小説 ~楽毅②~

落ち着いて読書のできない日が続いていますが、歴史的偉人は必ず読書家であることに鑑み、地道に続けます。楽毅もまた、不遇のときこそ読書をしたようです。

第二巻はいよいよ武霊王が中山国を計画的に滅ぼしにかかります。最終章に近いところで初めて「燕」に援助を頼むという話が出始め、史実である、「燕」の楽毅が「斉」を攻めるという構図に近づきます。「中山国」の宰相だったというのは宮城谷氏のフィクションと思われ(確か戦国名臣列伝で中山出身と思いたいと書かれていた)、ここで示したかったのは、中山を例にして、「ほろび」の国がどのような状態であるかということだったのでしょう。これは現在の会社等にもあてはめられるのではないでしょうか。

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祖国中山は自分にとって小さすぎるのか――。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。趙の侵略はとどまるところを知らず、戦火が絶えない。が、祖国の君臣は方策を講じず、内外で声望の高まる楽毅を疎んじ続けた。苦難の戦いを強いられた楽毅はどこに活路を見出し、いかに理想の自己を貫いたか。

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第二巻は、「ほろび」の哲学色が濃いところ、

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疑いながら事をはじめれば成功せず、疑いながら事をおこなえば名誉を得られない。君主の迷いは臣下の迷いとなり、ひいては国民の迷いとなる。

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勇と智をあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときよりも、なにもなさないときに、その良質をあらわすからです

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なにもしないとみせて、なにかをする。なにかをするとみせて、なにもしない。敵に虚実をさとらせないのは、孫子の兵法ではありますまいか

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復讐は相手を滅ぼすと同時に自分をも滅ぼすという因果の力をもっている

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白を黒であるといいくるめる術には信義が欠けている。あえていえば、そこには人の心がない。

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天与の幸を享ける者は希にしかおらず、その人に付すことによって幸をわけてもらうというのが幸運とよばれているものである。

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勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです

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天下の才は、天下のために使うべきであり、それが天意というものであろう。ひとりの人物が天業のために不可欠であるのなら、かならずその人物に天啓というものがある。その天啓をさまたげようとする者は、天の怒りを買い、天譴をくだされる

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君主とは孤独に生きる人をいう。孤独に身を置かなければ、群臣と国民とが納得する聴政をおこなえるはずがない。

(中略)

好悪があきらかであることは、正直であるというより、精神の幼さを意味している。あるいは人としての弱さもそこにあり、自立するという真の意義を理解していない。中山王は孤独に耐えられないからこそ、国を孤立化させている、ともいえる。孤独をつらぬくには勇気が要る。まったく援助を得られない立場に身を置いてみて、はじめて自己と他者というものがわかる。自分で考え、自分で決断し、自分で実行する。これほど勇気を必要とすることはない。

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こころざしが高い者は、それだけ困難が多く苦悩が深いということだ。人が戦うということは、おのれと戦うということであり、勝つということは、おのれに剋つということにほかならない。

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歴史を知ることによって、自分のむこうにある自分がみえてくる。

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歴史を知らぬ、偽善を行ってきた中山は滅ぶべくして滅ぶのだと。

2016年6月20日月曜日

中国歴史小説 ~楽毅①~

中国文明史は「漢」までいきましたが、歴史小説は「春秋戦国」や「楚漢戦争」において豊富です。読んでみたいと思っていた春秋戦国時代の人物、「子産」「楽毅」「楽喜」の三人のうち、前二人は宮城谷昌光氏が小説を書いてくれていることが判明し、一読しようと決心。省エネモードながら、少しずつ読み進めたいと思います。




一巻の概略は、外交を怠る慢心の中山国を、趙の武霊王が巧妙に侵略するのを、太子に光明を見いだした楽毅が巧みに防ぐところ、

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古代中国の戦国期、「戦国七雄」にも数えられぬ小国、中山国宰相の嫡子として生まれた楽毅は栄華を誇る大国・斉の都で己に問う。人が見事に生きるとは、どういうことかと。諸子百家の気風に魅せられ、斉の都に学んだ青年を祖国で待ち受けていたのは、国家存立を脅かす愚昧な君主による危うい舵取りと、隣国・趙の執拗な侵略だった。才知と矜持をかけ、若き楽毅は祖国の救済を模索する。

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抜粋箇所は主に田文(孟嘗君)の人柄についての部分が多い。

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独りで生きることはさびしい。自分のさびしさを視、自分のさびしさを聴いたにすぎぬ

(中略)

そのさびしさのむこうに、人の真影がある

(中略)

人の偉さというのは、孤独の深さにかかわりがある

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孟嘗君はたびたび自領を捨て、個として天下を闊歩した。
――ほろびのわかっている人のありようは、あれよ。
それゆえに孟嘗君は不朽なのではないか。

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薛公に会って以来、つねに自分にいいきかせていることは、おのれへのこだわりを棄てよ、ということである。

(中略)

無欲を衒う者は名誉欲にとらわれるという坎穽にはまりこむものであるが、薛公にはそれもない。

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かれの考えていることに根拠はない。すべてを感覚がおしえている。感じた通りに行動したにすぎない。したがってなぜそうなのかは説明できない。
――いのちにかかわるときは、おのれのままに動いたほうがよい。

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――人とはふしぎなものだ。
身分とは違うところで、人の格差がある。人がつくった身分ならこわすことも、のりこえることもできようが、天がつくったような差はいかんともしがたい。

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成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえをはじめるものである。

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信義などというものを枯葉のごとくふるい落とす戦乱の世に、信義を立てて生きている薛公は奇蹟の人といってよいであろう。

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自分の近いところにおよぼす愛が仁であれば、遠いところにおよぼす愛が義である。

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知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。

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軽蔑のなかには発見はない

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目には呪力がある。

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目くばりは自分にもおこなわなければならない。それが内省というものである。人は神ではない。万能でなく、人格も完璧ではない。むしろ欠点のほうが多い。その認識から発して、徳望の高みに一歩ずつのぼってゆく努力をしなければならない。

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この世で、自分で自分がわかっている人はほとんどおらず、自分がいったい何であるのか、わからせてくれる人にめぐりあい、その人とともに生きたいと希っているのかもしれない。

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2016年6月16日木曜日

中国文明史 ~漢~

楚漢戦争を経て劉邦高祖として初代皇帝となった漢。A.D.8年に一時的に王莽によって新という国を建てられ簒奪にあいますが、すぐに劉秀(光武帝)によって奪還。この簒奪以前を前漢、以後を後漢として400年続く漢帝国として扱っています。イメージが少し違うでしょうが、三国志の曹操が亡くなるころまでは漢帝国が存続し、ここに含まれるのです。


【漢】B.C.202年~(A.D.8)~A.D.220年

<特徴>
・当初は開国の功臣である異姓の者を諸侯王に報じて広大な地域を治めさせたが、周がそうであったように、禍の種となりつつあったため、同姓の諸侯王に据え替えた。
・その後も同姓の諸侯王の勢力が増し、割拠の恐れがあったが、武帝がその勢力を削ぎ、細分化することで、80年以上にわたって皇室を脅かした諸侯割拠の事態は回避された。
高祖の妻であった呂氏の専横により一時的に呂氏一族に王朝を乗っ取られる事態が発生。
文帝武帝と賢帝が続き、一時的な危機を見事に乗り切り威信を回復。
武帝の時代の拡大は特に目覚ましく、宿敵であった匈奴を分裂させ、南匈奴を属国にし、西に西域都護府をおいて、シルクロードを開通させた。
・辺境には移民を住まわせ、屯田兵を置き耕地を拡大。
・西域は36の国に分かれ、烏孫大月氏が最大規模。同盟ならずも西域文化は多く流入。
軍事的脅威は長城より北の匈奴のみ。南は百越、西南夷がいたが、属国的。
・戦場が北に限定され、戦争は戦車が衰退し、騎馬が重要された。
牛耕技術の普及。
鉄器の普及と青銅器の衰退(礼器としての使用に限定)。
紙や司南(方位磁石)の発明。
・宮廷音楽が俗楽を取り入れて作新。
私有地を荘園にして勢力を拡大した地方豪族がやがて亡国の因。
仏教が西域より伝来し、儒教、道教も加えて三つ巴の論争が始まった。




ここでは、やはり仏教伝来に注目したいですね。記録的にはA.D.67年と。

『仏教が中国に伝わった当初、その教義は儒学・道教とは大きな違いがありました。とくに、家と国家に対する観念のちがいがもっとも大きく、

仏教は家を捨て国を離れ、人倫関係の垣根をうち破ることを主張することで、この世の苦難を超越することを求めました。

儒学は家を平穏にし国を治めることを求め、忠と孝を基本道徳としました。

道教は個人が救済されて仙人となることを説きましたが、忠と孝を修行の戒律としていました。

したがって、後漢末に仏教は新しい思潮として社会でめざましく活動し、中国の伝統的な道徳観念に挑戦しました。』

ううん。仏教といってもまだまだ創価学会の思想からは程遠い気がします。小乗から大乗への流れの渦中だったのでしょう。




2016年6月15日水曜日

仏法と歴史 ~陳勝・呉広編~

さすがに、退職するというのはエネルギーがいりますね。

前例のない制度を使って、とうとう打って出てしまいました。もう戻れません。臆病な心が襲いますが、そこは信心の出番。唱題で臆病に勝ってこそ、仏の生命は湧現する。

なにより「先駆け」の使命感です。戦国時代なら生きるか死ぬかですからね。今はやはり文明が進んでいると言えるでしょう。明るい方へ。明るい方へ。

どのみち、このままいくと数年後には希望退職者を続々出すことになるでしょうし。



丁度、今読んでいる中国文明史「秦漢」のところになり、項羽と劉邦の楚漢戦争はごくあっさりと素通りなのですが、捨てて置けません。

「春秋戦国」についても、何遍となく余話として脱線してきましたが、この時代もきっちり清算しないとですね。陳勝と呉広は秦を滅ぼすきっかけの反乱を起こした先駆け的人物で、そのまま「陳勝呉広」で先駆けの意味のことわざになっています。この乱に呼応して次々と反乱者が立ち、最終的に項羽と劉邦に絞られ、劉邦が漢を建国するのです。


ここは、池田先生のスピーチを紹介することによって、中国文明史余話としてではなく、仏法と歴史の観点からご紹介したいと思います。


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作家で歴史にも造詣の深い陳舜臣氏『小説十八史略』からも参考に引かせていただくことにする。
はじめに秦帝国の末期、最初に反乱の先端を開いた陳勝にふれておきたい。
彼は若いころ、しがない雇われ農夫であった。あるとき、彼は将来の夢を語って仲間にあざ笑われた。そのとき彼は「嗚呼、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」と大きくため息をついたという。
ツバメやスズメのような小鳥には、オオトリやハクチョウのような大鳥の志がわかるはずがない。小人物に、自分を超えた器量の人物の大志大望が、どうして理解できようか――との嘆きである。これは本来『荘子』にある話だが、陳勝のことばによって有名になった。
私どもの目的である広宣流布は、最高の「大志」である。その遠大なる志、純粋にして壮大なる目的観と心意気は、社会の人々には、なかなかわからないであろう。まして濁世にあって、目前の利己的欲望や、既成概念にみずからの目を覆われてしまった人々には、想像すらできないにちがいない。ゆえに諸君は、すべてを悠々と達観しながら、大いなる「鴻鵠の志」を、使命の人生の大空に広げていっていただきたい。

陳勝はやがて農民反乱(陳勝・呉広の乱)の指導者として立ち上がった。そのとき、九百人の農民を前にして行った名演説は有名である。
「王侯将相寧んぞ種有らんや」――王侯、将軍、宰相といっても、生まれつきそうなる人種が決まっているわけではない。皆、同じ人間ではないか。だれでもなれるのだ。われわれも、そうなってみようではないか。陳勝の人間としての捨て身の叫びは、聴衆の心を見事にとらえた。

1987年11月2日 第9回創価班総会にて池田先生の指導より
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たった二つの成語であるが、彼らは歴史に名を遺したのです。結局、陳勝は一度は王を名乗りながらも、秦軍の反撃や内部分裂によって滅び、歴史の舞台からは姿をけすのですが。

王になることで欲望が満たされたともいえるし、やはり際限のないものを志の頂点にする末路は、内部分裂ではないでしょうか。仏法でも「師子身中の虫師子を食む」とあるように敵はいつでも内部です。

さあ、自分も心をいれかえて、体調管理をしっかりしつつも、大志に向かって勉強を続けよう。

2016年6月9日木曜日

中国文明史 ~秦~

いよいよ秦がB.C.230年から221年の約10年の間に、総数200万を誇る強力な軍隊を東進させ、各国を併呑していきました。戦いによる死者数は万人規模で、例えば、B.C.260年の趙との戦いで40万人の首を捕ったとあるくらい大規模な戦争でした。

始皇帝の権力は絶大で、基本的な制度は、以後2000年にわたり中国の歴史を流れる骨格を形成しましたが、伝えるべき人物を誤ったため、秦という国自体はたった15年の命脈しかありませんでした。


【秦】B.C.221年~B.C.206年

<特徴>
中央集権的な郡県制(48郡)が全国に敷かれた。
・9度にわたり遷都。統一後を含め最終的には咸陽に落ち着いた。
皇帝制度、三公九卿などの官吏制度を設け、血縁は軽視した。
戦争を重視し、軍功によって爵位(20等級)が与えられ、皇族以上の出世が叶う時代。
・軍功によって成り上がった軍功地主の政治が残虐で、最終的には亡国の因。
・各国にあった都市防衛の城壁はなくし、北に匈奴に備えた長城を建設。
(趙と燕にあったものに追加した)
国民皆兵の軍政。
・咸陽を中心として幹線道路、巨大用水路()を建設。
度量衡、車軌、貨幣、文字の統一を進めた。
・焚書坑儒
・武威を示すため5度にわたり始皇帝巡幸。5回目の途中で死亡。
・あらゆる体制を短期間によく整備したものの、趙高という悪名高い臣下に
 後事を託したため、二世の代で滅ぶ。





2016年6月4日土曜日

仏法と歴史 ~ジョン万次郎編~

5/29~6/3まで4日間、池田先生は聖教新聞ジョン万次郎を紹介してくださいましたね。大学時代に四国一周旅行に回ったとき、銅像を見て、漂流した人だとは記憶していましたが、いつの時代の人で、具体的な事跡についてはよく知りませんでした。

これを機会に、先生が若かりし頃に読んだという井伏鱒二氏の短編小説・「ジョン万次郎漂流記」と、短編では物足りず童門冬二氏「ジョン万次郎」を通読しました。

明治維新の坂本竜馬や勝海舟と同時代人だとは、幕末好きを呼称していながら知りませんでした。咸臨丸で条約批准のためアメリカに渡った時も通訳で同行していたとは。「新・人間革命」にて、池田先生が1960年にアメリカ初訪問されたときに、丁度100年前の1860年のこの日の出来事を感慨深く述べられていましたが、この時にサンフランシスコまでは彼も来ていたのです(咸臨丸の補修とかでワシントンには行かなかったとのこと)。


聖教新聞「新・人間革命」より、

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強き向上、向学の一念があれば、人生のいかなる逆境も、最高の学びの場となる。

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万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。

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自分に力もなく、立身出世や保身に執着する者ほど、胸中で妬みの炎を燃やす。大業を成そうとする英傑は、嫉妬の礫を覚悟しなければならない。
人間は、ひとたび嫉妬に心が冒されると、憎悪が燃え上がり、全体の目的や理想を成就することを忘れ、その人物を攻撃、排斥することが目的となってしまう。そして、さまざまな理由を探し、奸策を用いて、追い落としに躍起となる。
国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。

(中略)

大事なことは、その心を超克する、人間革命の戦いだ」

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報恩は、古今東西を問わず、普遍的な人間の規範といえよう。

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「ジョン万次郎」より、

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貧しさと、貧しさからくる辱しめとの二重の敵と、万次郎はいつも闘ってきた。その戦いが万次郎を強くした。大抵のことにはびくともしない性格の強さを、土佐の厳しい条件が万次郎に与えていた。

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帰れる日まで、できるだけこの国のいいところを学んで、日本に持ち込もう、と思っていたのである。

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りこうな万次郎は、表面は民主的で自由なアメリカの、隠された部分を鋭く見抜いた。しかし、その恥を、何とかして無くそうとつとめている、ホイットフィールド船長のような立派な人がいることも、正しく認めた。

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(したいことをすべきだ。)という考えは、万次郎にとっては、実に新しい考えだった。個人が自分の考えどおりに生きる、ということは、日本では、あまり許されないわがままなのである。

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(大きな船が自由に造れるからだ。そして、どこの海へでも出ていけるからだ・・・・・・)という、アメリカやヨーロッパの、海に対する考えかたの違いなのだ、ということが強く感じられた。

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本当は人間の冒険心は純粋で美しく、また、それが人間生活にいろいろな新しい便利をもたらすものだが、この冒険心に、ときどき、裏があることがある。
それは、冒険によってお金を儲けようとすることだ。

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人間には、やはり、生きる場所というものがあるらしい。力が思いきり発揮できるところにいないと、逆にだめになってしまうのだ。

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いま、何かをしていないと、わたしの冒険心がだめになってしまうような気がするのです。

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準備を全部整えてから仕事にかかる、というのが、万次郎のやりかただったのである。

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ものごとの始まりはいつもそうである。始まってしまうと、意外とあとの収穫のスピードが速いものなのである。

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「アメリカでくらして、一番頭のなかに残ったことはどういうことか?」
万次郎は、すぐさま答えた。
人間に、身分の高い、低いということがないことです。」

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万次郎は、英語に限らず、学問の勉強にひとつの考えを持っていた。
それは、「学ぶ気がなければ、何を教えたってだめだ。」という考えである。

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今の日本の動きかたに非常に不満だった。みんなが一生懸命に国のことを思っているのはわかる。政府を替えるのもいいだろう。
しかし、いったい、誰のために、何のために替えるのだろう?その“誰のために”ということを討議する人が一人も出てこないのは、どういうわけだろう。

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新しい日本が考えなければならないのは、日本の国民全部の幸福だ。一部の人の幸福ではない・・・・・・

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徳川幕府が倒れて、新しくできた明治政府は、日本をヨーロッパの国々の経済や文化水準に追い付かせようと必死になった。
「まず、国を富ませることだ。」
と考えて、日本の工業化に大きな力を注いだ。そのかわり、国民を富ませることを忘れてしまった
「国民にはなにも知らせる必要はない。ただ、政府に頼らせておけばよい。」
という当時の考えは、その後もずっと続く。

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そう、創価学会は冒険心をもって、強く賢い世界民衆勢力を築きあげるのだ!

2016年6月1日水曜日

仏教と歴史 ~ナポレオン編②~

池田先生は過去に何度もナポレオンを紹介されていますが、生涯を一読してよく理解できました。先生もまたナポレオンのごとくあらゆる知性に恵まれ、ナポレオンが民衆の心をつかまんとしたごとく、それを宗教(人生への基本的な法則を示す)によって達成しようと絶えず努力されていることを。近代ナポレオンも目指した世界連邦、将来はその方向へ向かうのでしょう。



戴冠式の栄光から、そして没落へ・・・ (赤字が成功へ、黒字が失敗への因)

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それよりももっと大きい陥穽は、成功のともなう本人心内の変化だ。慢心と油断だ。

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適材適所ということが人類の要求だ。人材抜擢ということが古今の希望だ。それをもっともめざましく代表したるところに彼の人気があった。一兵卒より元帥をつくり、一属官を一躍して大臣にした彼の人材登用主義が、革命フランスの理想だ。

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彼が少年以来のぞんだものは、ほとんどこれを達した。しかるににぎってみたらそれはなんという違ったものであったろう。金と思ってつかんだのは、泥であったのか。声名も富貴も王冠も、これだけの努力のかいのあるものなのか。大きい失望、ものたりなさ。それが青年貧窮の日のように重く、彼の頭を圧してきた。
ただ彼は東洋を思うときだけ、喜色満面少年のように快活であった。

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ナポレオンの帝室費はブルボン王に比して四分の一しかかかっていなかった。それがナポレオンの強味であった。彼は一生ぜいたくということに興味をもっていなかった

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彼は細事に注意深かった。それが彼の大事業をした秘訣であった。

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泉のわくように知恵が日夜、あの大きい頭のなかからわきでていたものらしい。しかもそのわいた考えをことごとく自分でこまかく仕上げる力をもっていた。

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彼の成功と失敗との根本原因がひそんでいた。彼は人間の弱点を利用した。人間の金銭欲と、名誉欲とを十二分に利用した。そうしてすべての人がそれで思うように動くのを見て、あまりにその一方に片よりすぎてゆきつつあることに気がつかなかった。

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彼は利欲権勢以外の、ある清純な理想を大衆の前に標置して、小我以上の大我に向かって天下国民の注意を集めてゆくことを、しだいにおろそかにするようになった。

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こうして一方には帝制を維持せんとして思想弾圧をおこない、ために全欧の自由主義者の痛憤を買って新しき国民覚醒運動の端をひらいたように、他方には誤った経済政策を強行せんとして大衆の生活を圧迫し、しだいに彼にたいする謳歌の声が呪詛に変わっていった。

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四十年の人生を振り返ってみる。なんという寂寞たる天地だ。小人物とあきめくら。あおいで宇宙の幽玄に参入し、伏して全人類の運命を思う者はいないのか。この乱雑な人間界に秩序を与え、悠久な人類史に基本的な法則を提示することが、人間の一番大きい仕事だということを悟るやつはいないのか。

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「前進!」
なにをぐずぐず思い迷うのだ。おまえのゆく道はただ一本だぞ。前へ前へと進んで今日まできたのだ。いまさらここで踏みとどまって満足するのか。攻めるのが守る唯一の道だ。停止は自滅だぞ!戦え!戦え!前へ前へと出て戦え!

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逆境に処してはじめて人のまことを知る。彼は利欲をはなれて彼を愛していたのはだれだれであったかをはっきりと知ることができたのだ。

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彼はほんとうの休息をしていない。人間のほんとうの休息は、宗教と家庭と芸術だ。その一つだに彼は持っていないではないか。永遠の実在に一身を委していっさいを忘れる宗教も、地上の純愛に陶酔して世累から解放される家庭も、一曲の神韻に世外の人となり、一幅の名画に登仙する芸術的歓喜も、はた一抹の清香に酔い、一輪の野花に心おどる自然愛も、彼にはなかったのだ。

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彼は口授しているときは、なにものも耳にはいらず目にはいらなかった

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自分の最大の敵は自分自身であったのだ。自分が自分の悲惨なる運命の原因であった。

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彼が三つのものを多量にそなえていたということだ。
一つは、分析的能力で、
一つは、総合的能力で、
いま一つは、非凡な実行力だ。

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ある哲人のいったように、「自己心内の恐怖心を克服したる人を真の貴人とす」である。われわれはいろいろの希望と計画をもっている。しかし危険の恐怖のために、とうとうこれを実行せずして死んでゆく。なんびとといえども、自己心内の恐怖心を克服したら、すばらしい仕事ができるのだ。

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「おれは頭のなかにたくさんの引き出しがあって、一つの仕事をはじめると、ほかの引き出しはちゃんとしめてしまうのだ。それがすむと、その引き出しはしめて、すぐまたほかの引き出しをあけるのだ。だから引き出し同士がまざることは決してないのだ。そうして眠るときは引き出しをみんなしめて寝る」

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2016年5月30日月曜日

仏法と歴史 ~ナポレオン編~

今月の本部幹部会で紹介されたのは、1993年6月の池田先生の本幹スピーチで、ナポレオンをテーマにしてましたね。

今日の聖教新聞に掲載されていたので、そちらを中心に紹介します。さらに、今日から、先生もかつて読んだという鶴見祐輔氏著の「ナポレオン」を読み始めました。戴冠式までの中からこれぞという文章を紹介します。



聖教新聞から、

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ナポレオンは、語った。
「それにしても、私の生涯は、何という小説(ロマン)であろう!」
皆さまも、自分自身の「ロマン」をつづり、自分自身の「歴史」をつくることである。
だれに言われようが言われまいが、自分は自分らしく、決然たる「舞」を舞い、「曲」を奏で、「劇」を演じゆく人生であっていただきたい。

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ナポレオンは、戦いにあって、常に先頭に立った。「常に先頭に」――これが指導者の鉄則である。
次元は異なるが、日蓮大聖人も、法戦の先頭に立って戦われた。ゆえに門下の私も、常に先頭に立つ。

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ナポレオンは、体験のうえから次の言葉を残している。
「いたずらに多くの人間がいたからといって何もならない。一人の人間こそすべてである」
牧口先生も、「羊千匹より獅子一匹」と言われた。
私も、「ただ一人で」の決心を貫ききってきた。

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ナポレオンは、ある時、こう語った。
「華々しい勝利から没落への距離はただ一歩にすぎない。私は、最も重大な状況において、どんな大きな事件もほんのちょっとしたことで常に決まるのを見て来た」と。
これは、私が戸田先生から厳しく教わったことでもある。

(中略)

「油断大敵」。これは、一国の歴史にも、一人の人生にもあてはまる真実であろう。

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「ナポレオン」から、

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彼のうちには矛盾した二つの性格があった。その一つは女性のように敏感な内気であった。もう一つは獅子王のように勇敢な冒険精神であった。

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当時の彼の手記で後世をおどろかすのは、この二十未満の青年が、分析力と総合力とを異常にもっていたことである。分析的頭脳の人は小局にとらわれやすく、総合的頭脳の人は放漫空粗にながれやすい。しかし偉大なる人傑はつねに総合的頭脳の人であった。

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彼の征服欲のうちには、彼自身のために世界を征服しようという欲求のほかに、しいたげられたる一般大衆のために、支配階級を打倒し征服しようという欲求が強く働いていた。ゆえにそれは、現状を維持しようとする征服欲でなくて、現状を打破しようという征服欲であった。であるから彼は終生反逆児であったのだ。いな反逆児であるべきであったのだ。

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「前進!」
それが彼の決意であった。人生畢竟一賭博、運命はただ天にあり。男子功業をたつるの途は前にある。

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ナポレオンの当時の手記に「精神は剣よりも強し」という句がある。彼は軍人としての戦勝よりも、文章言論による民心把握の力が、近代大衆運動においてはるかに有力であることを知悉していたのである。

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あのロディの戦争の夜、余は自分の非凡人であることをはじめて意識した。その折りまでは空想とのみ考えていた大事業を実現しようという大志が発生したのはあのときからだ」と。
人間の一生には、俄然として神秘の扉が開いて、さっと自分の運命が見わたされる瞬間があるものだ。

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男性は女性の刺激によって発達し、女性は男性の啓発によって進歩する。人間の人格完成の道行きは、多く異性の感化である。

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彼は人間の社会的努力の目標として、金銭のほかに名誉を標置することのいかに重要なるやを知っていた。

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人間は働いているときに一番幸福である。ことに天才児はその非凡の天分を十二分に発揮するときにもっとも幸福である。ナポレオンが青年失意の日に、しばしば死を思ったのは、金に困ったからでも、名誉が得られなかったからでもなかった。彼はむずむずするように五体にあふれているその才能のはけ口がなくてはげしい憂鬱を感じていたのだ。

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わかる、ナポレオンの冒険精神が。いよいよ前進、前進、これからだ。

2016年5月27日金曜日

中国文明史余話 ~戦国の中山編~

もう一つ。戦国期B.C.414年に興り、B.C.296年に滅んだ強国を記録しておきます。その名は中山国で、魏・趙・斉・燕と接する北方にありました。北方民族である鮮虞族が北方を犯して立てた国です。

「中国文明史」も「戦国名臣列伝」もこの国を軽視できないようですのでここに記します。一時期、魏からの支配を受け、中原文化を吸収し、青銅器文化を発達させた国でした。

以下、楽毅の出身が中山との著者の説から、「戦国名臣列伝」に詳しくこの国のことが書かれています。

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中山の君主が王を称えたのは、宋王より早く、紀元前313年のことで、宋王とちがうのは、それが自称ではなく、他国の王に承認されたということである。それゆえ中山の朝廷は王朝となり、その王朝は中山国が滅亡する紀元前296年までつづいた。
とはいえ二十七年間の王朝はいかにも短い。それゆえ百年後には、中山は伝説の国となり、千年後には、幻の王国、となった。
だが、中山国はまぎれもなく存在した。一九七四年に考古学調査が中山王陵でおこなわれて、一九七八年までに三十余基の墓や都城遺跡があきらかにされた。

(中略)

が、皮肉なことに、中山の君主が王を称えたことが中山国の滅亡の遠因になった。
すなわち、中山君が王を称えることにかねて難色をしめしていた斉王が、自身が出席しない諸侯会同において中山君の称王が許されたことを知り、

―――不愉快である。

(中略)

中山王と斉王が慢心の上にいたことはたしかであろう。慢心は知恵を涸らし、人を去らせる。

(中略)

中山王の尚は膚施へ移され、平民となった。

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先に楽毅のところで紹介した「五尽」を中山は具えてしまい滅んだのでした。

慢心を起こした組織が崩壊するのは早いですね。

中国文明史余話 ~戦国の秦編②~

さあ、いよいよ天下統一です。顔ぶれは4人。戦国中期から末期へ。韓・魏・楚・趙・燕と滅び、斉は戦う気力なく併呑されていくのです。燕の放った始皇帝暗殺の刺客・荊軻は実に惜しかったですけど。

・白起(ハクキ)
・范雎(ハンショ)
・呂不韋(リョフイ)
・王翦(オウセン)

白起は、先に書いた魏冄が登用した常勝将軍です。秦の版図は彼によって大きく広げられました。このまま魏冄が宰相でも統一はなったかもしれませんが、そこに現われた若手ホープが范雎。
彼の遠交近攻策が王の採るところとなり、魏冄とともに白起も表舞台から去っていきます。最後は多くの兵士を殺してきた罪を償うという名目で自殺します。

范雎は、天下統一へ向けて、遠くの斉と同盟を結びながら、多いに近隣国を攻め、天下統一の道筋を立てました。最期は斡旋した他者の罪の責任をとり宰相をやめました。

呂不韋は、いわずと知れた始皇帝の実の父親説のある商人出身の宰相で、始皇帝の父親がまだ人質だったところから一躍、秦王にのしあげたのも彼の実力です。最期は力をもちすぎて、始皇帝から死を賜り、毒を飲み自殺しました。「呂氏春秋」といわれる百科事典も後世に残し、エピソードがありすぎです。

王翦は、わざと欲深いところを始皇帝に示したりして、始皇帝から疑われるのを避け、見事彼の息子、王賁と天下統一を果たすのです。決して無茶な戦いをしない戦術で、これほど天下統一を速めたのは、彼の将としての器が天授のものだったのでしょう。



宮城谷昌光氏「戦国名臣列伝」「春秋名臣列伝」に比べてエピソードが充実し、永久保存版にしておこうと思います。最期の秦の4人のところを詠めば、秦の天下統一がどうやってなされたかわかるようになっています。陳舜臣氏「小説十八史略」と合わせて読めばほぼ内容は同様ですが、さらに充実するかと。

中国文明史余話 ~戦国の秦編①~

秦は末期には天下統一へ突き進んでいく巨大国ですが、前期~中期はまだ後発国からの成長期でした。

その成長を支えた二人、

・商鞅(ショウオウ)
・魏冄(ギゼン)

商鞅は、未開発国に色濃かった神権的政治から、秦を法治国家に目覚めさせた才人です。日本の江藤新平とイメージが重なるべく、刑罰を受けたものからの怨みがひどく、最後は自らの法により無実の罪を着せられ、車裂の刑にあいます。

魏冄は、立ち回りが絶妙で、登るところまで登った達人です。中期に秦と斉を二大国と決定づけたのも彼です。その後も斉の力を合従によって削ぐ等と功績は絶大ですが、最後は新しい人材の台頭で身を引かざるを得ませんでした。


この二人にぴったりの「菜根譚」の条文を、

第137条
  位階勲章は高くなりすぎず、
  自分の得意とする処は、
  得意を出し切らぬが、危険を避ける方法




最後に、組織についての重要な著者の言葉、

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富強をはたしたという驕りは、人材の発掘をにぶらせ、観察眼をくもらせ、危機意識を払底し、改善の意欲を減退させた。人でも組織でも、現状に満足してそれを守ろうとした瞬間から衰頽がはじまると想ったほうがよい。それをまぬかれるためには、改善しつづけても達成しえない高みに志をおいておくことであり、志と目的とはちがうということを認識しておくべきである。

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2016年5月26日木曜日

中国文明史余話 ~戦国の斉編~

斉は秦とどちらが天下をとるかというくらい、戦国七雄のうちの二大国であった。最期に滅ぼされたのも斉。しかしながら、斉も一度、あの燕の名将、楽毅にもっとはやく滅亡させられそうになったことがある。

次の二人のうち一人は、その滅亡を救った英雄である。

・田単
・孫臏(ソンピン)

田単が、楽毅が落とした70余城の後に残された3城に立てこもり、楽毅を失脚させて、後釜の将を大敗北させ70余城を取り戻した人で、小役人出身というからまさに英雄です。ちょっと権謀術数が多い人のイメージはあります。最期はあまり斉で優遇されず、これまた楽毅と同じく趙に優遇され宰相とまでなったというから、趙の恵文王の徳もすごかったのだと改めて感じました。楽毅と田単は趙で再開してこの時のことをたぶん幾度となく語り合ったでしょうね。

孫臏は、これまた有名で、孫子の兵法の孫子には実は二人モデルがいた!というもう一人の方です。孫子の兵法と普段使われている方は、呉にいた孫武のことですが、この時代、孫子といえば、この斉の孫臏も兵法家として知られていたことが、出土した竹簡から分かったのです。臏とは、魏の同学の者に騙されて、彼が両足を切られる刑をうけていたからです。その復讐を国同士の合戦で果たすのだから痛快なエピソードです。孫武よりも物語性はもっている人ですね。

この二人にあった「菜根譚」一度絶望の淵に立たされる程、苦労したことが名を上げる鍛錬となったこの条文でしょうか。

第127条
  災厄や逆境、困窮に遭う事は人間を鍛える
  一つの鍛冶床である。
  よく鍛えれば心身と共に益し、
  鍛えないと心身共に駄目になる。




2016年5月25日水曜日

中国文明史余話 ~戦国の燕編~

燕は大国とばかり思っていたイメージが少し違いました。戦国期は斉の勢力が強く、実情は斉の属国のようになっていたようです。その燕を一躍スターにした二人がいます。

・蘇秦(ソシン)
・楽毅(ガクキ)

蘇秦は、戦国が合従連衡の時代と言われる合従の方を唱えた先駆者。連衡の張儀と並んで同じ鬼谷子に学んだ同門ということで、エピソードとして欠くべからざる人物です。

楽毅は、後の世の劉邦や諸葛孔明が尊敬したというほど徳の高い軍師。蘇秦の策謀と楽毅の徳によって燕は一躍、斉をあわや滅亡というところまで追いつめます。70余城を落とし、残り3城というところで主君が没し、よくある話で暗君のために亡命します。

これだけ有名な二人ですが、末路は違いがあります。その差は才能をどのように使ったかだったのではないかと思います。蘇秦は自分の亡骸まで策謀に使い、車裂の刑になります。楽毅はあの黄金時代の趙で礼遇されて亡くなりました。



「菜根譚」のこの条文で二人の違いを現したいと思います。


第139条
  徳は才能の主人であり、才能は徳の下僕である。
  才だけあって徳がないのは、丁度家に主人がなく、
  下僕が切り盛りしているようなもので化物が出る。




もう一つ、楽毅のところで亡国の条件、五尽について、

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①約束したことを守らない ・・・『信』が尽きる
②人を正しく誉めない   ・・・『名』が尽きる
③臣民を愛さない     ・・・『親』が尽きる
④食料がない       ・・・『財」が尽きる
⑤人を用いない      ・・・『功』が尽きる

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あっ 菜根譚含め④以外全てうちの会社のことでは・・・ 

財が尽きると亡くなるのか・・・ さもあらん・・・


楽毅はぜひとも長編で読んでみたくなりました。

2016年5月24日火曜日

中国文明史余話 ~戦国の趙編~

戦国も末期に入るころに恵文王という名君が現れ、趙は遅い黄金期を迎えた。三人は共にその王によって大抜擢され執政まで登った人たちである。


・藺相如(リンショウジョ)
・廉頗(レンパ)
・趙奢(チョウシャ)


藺相如が宦官長の家人で、趙奢が地方の税務役人であったことを考えれば、恵文王がどれだけ身分に頓着せず広くから人材を求めていたかが伺えます。その中で、キラ星の如く登場した三人も本当に気持ちの良い人たちです。

既に秦による天下統一の動きが活発化する中で、超大国秦を恐れず、勇気で超の国威を守り抜いたのはすごいです。


この三人、いずれも胆力と勇気を共通語にしたいです。

それを支えていたのは、その能力を見抜き任せることのできた、まぎれもない恵文王の力(忍耐力)です。以下、著者の恵文王を褒める言葉から、三人を大抜擢した名君を偲びたい。

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恵文王の忍耐力は非凡であり、自身の決断を後悔しない精神のありかたはみごとであるというしかない。

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人を敦尚するという恵文王の思想が血のかよった政治を実現し、王朝の風通しをよくしたといえるであろう。

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恵文王は怒りたいときに怒らず、泣きたいときに泣かず、自制心と忍耐力にすぐれていた。

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「菜根譚」の条文にはこれを引用します。


第125条
  欲心の本体を認識(悪魔を照らす玉)そして忍耐力(悪魔を斬る剣)が必要。

2016年5月23日月曜日

中国文明史余話 ~戦国の楚編~

ここであげられているのは1人で、あの呉起が楚で志半ばで亡くなってからの楚である。よって旧習に戻り、退行の気配のある楚である。

・屈原

彼は、外交上の手腕者であるが、文学史上の巨星とみられる方が多い。なにせ、秦による天下統一に向けた亡国の悲哀も彼一人の詩に収まる程の代表者であるからだ。



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その切々と哀訴するような詩文の気息は、司馬遷の文章に影響をあたえたとおもわれる。

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外交上は、あの合従連衡の、連衡を唱える代表者、秦の張儀(楚で一度拷問にあい、恨んでいた)に負けたとも言えるでしょう。そのおかげ?で文学史上に永遠に残る哀しみに満ちた亡国の詩(楚辞)が完成したのです。

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清潔な身に汚れた物を衣せられてはたまらぬ。それならば、川のながれにはいって、魚の腹中に葬られたほうがましである。皓々たる白が、世俗のきたない黒をこうむってよいものであろうか

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屈原は我万物と一体なりとは感じれなかった。我独り行くの人であった。




「菜根譚」のこの条文を送ります。

第76条
  腐った土には草木が良く繁茂し、
  澄みすぎた水に魚はいない。
  君子は、雅量を持つべきで、
  潔白一点張りで我独り行くは狭量である。


中国文明史余話 ~戦国の魏編~

魏は超大国・晋が三分割されてできた当時としては新しい国。

ここで紹介されている1人は、かなり有名で


・呉起(呉子)


です。兵法書を書いているので兵略家として最も有名ですが、司法や行政にも優れ、法治国家をめざした改革者でもありました。その名から呉のイメージがどうしても出てきますが、呉は呉起が生れる30年前くらいに滅んでいます。衛で生まれ、魯で学び、魏に仕え、やがて亡命して楚に仕えました。

魏に仕えた時に、もっとも兵略の能力を発揮し、魏が戦国前期に昇天の勢いであったのも、彼の力による東部拡大(秦を攻める)があったと思われます。



ただし、彼の性格には問題があったと思われ、以下のエピソードが残っています。

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呉起は自分をそしった者を三十余人殺して、衛を出奔しようとしました。

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呉起の妻は斉の者であるから、呉起を斉軍と戦わせるのはどうか、と難色をしめしはじめたので、呉起は妻を殺して将軍になることを求めたという

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誇張された表現だとは思いますが、人となりが伺えるエピソードで、末期は、当主の後ろ盾が亡くなり、自分の改革によって土地を奪われた公族らに襲われ、当主の亡骸と一緒に弓矢で貫かれ果てたという、これまた壮絶なエピソードを残しています。亡くなる寸前まで仕返し(弓矢をいた者は当主を傷つけた罰で死刑となった)を考えたのだと、他の本では書かれていたのを思い出しました。



「菜根譚」で彼にふさわしい条文をさがしてみました。酷薄さが彼の禍を招いたと思われます。


第72条
  天地は気候が暖かであれば草木も生え、
  寒くなると枯れる。
  気性も冷酷だと天からの授かりも少なく、
  和やかで温情だと福徳も厚い。




最後に、彼は冷酷一方ではなく効果としての温かみは備えていたことを付け加えます。

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士卒のなかで最低の身分の者と衣食をおなじにし、卒と労苦をわけあった。兵卒のなかに疽(悪性のできもの)をわずらっている者がいれば、呉起は膿を吸ってやった。

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ポイントは心からということでしょうか。

2016年5月22日日曜日

中国文明史余話 ~戦国の越編~

越は現在の浙江省辺りに起こった百越の起こした国。この本では、夏王少康の庶子を始祖とする伝説を採用。

越で挙げられている人は

・范蠡

で、かなり有名です。過去から積み上げてきたこの人のイメージをいうと、


淡泊で引際の絶妙な、世間的には最高に成功した人


です。内心はしるべくもないので、この時代に最も成功した人とのイメージが強いです。



呉と越の戦いは国語の漢文の教科書にもなるくらい有名ですので、改めて紹介しません。「臥薪嘗胆」といえばお分かりかと思います。この嘗胆の越王勾践を軍事的に補佐したのが范蠡です。よく時を見極め、呉王夫差への復讐を成し遂げ、呉を滅ぼしました。

ここからは、著者の言葉を借りて范蠡の意中を探ってみたいと思います。

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范蠡はこれまでの呉越の戦いをみてきて、内実が復讐に終始しており、果てしがないことを実感した。いま勾践が出師すれば、かならず勝てるであろうが、ふたたび夫差に怨みを植えつけ、数年後には復讐される。范蠡はそういう戦争を終わらせる戦いがしたいのであり、そのためには天意をうかがい、天意に従う必要がある。

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越王という人は、患難をともにすることはできますが、楽しみをともにすることはできません

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このように、時を見極め、非常に富貴に対して淡泊であり続け、財をなげうっては財をなして、天寿を全うしました。稀に見る成功者です。



「菜根譚」の以下二つの条文が彼にぴったりです。根底は「淡泊」たれ
82条に至っては現在の私のマイテーマでもあります。

第141条
  過失は一緒に責任をとり、手柄は自分ではないよう振舞え
  苦労は共にし、快楽は共にしないように




第82条
  竹林に風が吹いて騒がしいが、風がなくなると音がない
  雁が岸辺を飛んでいくが、雁去れば影がない
  事柄が起きたらそれに即応し、事が去ればサラリとする


2016年5月21日土曜日

中国文明史余話 ~春秋の秦編~

秦は現在の陝西省を中心にした大国で、後に天下統一を果たした国。

ここであげられる1人は

・百里奚(五羖大夫)

で秦で覇者の一人とされる繆公を助けた名宰相である。名君、繆公の大抜擢があっての人でもあります。斉の管仲とどこか似ていますね。

名前や出身の説明に終始しているため、この方が亡くなった時の民の様子によって、人となりを知るしかありません。

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五羖大夫が亡くなったときは、秦国の男女は、涙をながさぬ者はなく、童子は歌謡せず、臼をつく者は杵のかけ声をやめた。これこそ五羖大夫の徳というものであった。

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春秋期の秦は野蛮なイメージがありますが、この頃には徳のかなりいきわたった政治が行われていたものと思われ、これを基礎に、のちにいち早く法治国家となってから、天下統一へと突き進むのです。