考えてもみたのだが、その問いのまえに決意ではないのか?
経済=経世済民から来ているとすれば、そうするのだ。幸福にする経済にするのだ。
そういう誓願のタイトルこそ、相応しかったのではないだろうか。
第6章は、「技術革新は人間を進化させるのか?」
イノベーションという言葉も出てきてもっと多角的に議論されるかとワクワクしましたが、ITに偏った議論となり少しがっかりです。ITは当然重要な地位を占めると思いますが、AI等はヒト本来の心を持つには至らないというのが既に私の結論です。何故なら、宿業論や永遠の生命観がそこにはないからです。よって仮に技術が非道徳的に到達しようとした場合、何らかの形で天罰が下るだろうと。それを防ぐ鍵となるのが道徳であり、哲学であり、宗教ではないだろうか。
よって、本題の結論と、私の結論は真逆です。防衛線は寧ろ前方に。科学が暴走しない方向に利用するようになると期待しています。
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ガリレオやニュートンが教会の世界観を吹き飛ばしたとき、教会は自分たちの防衛線を後方に引き直さざるを得なかった。劇的な変化が予想される今日、防衛線の後方引き直しを迫られるのは、人道主義者たちだろう。歴史家アルド・スキアヴォーネは、次のような防衛線を提唱した。
「体や脳にもたらされるいかなる加工も、次世代に遺伝してはならず、次世代の人間に影響がおよぶようなことがあってはならない・・・・・・」。
「劇的変化の後に、われわれは率先して正しい行動をするのだろうか」。これは、あえてする挑発的な問いだが、われわれの信じる人道主義は新たな問題に直面すると、その脆弱性があからさまになり、われわれはと途方に暮れてしまうのだ。
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途方に暮れてはいけない。人類の全体が悪業を積む方に向かえば滅ぶしかないし、善業を積む方に向かえば、その手前で述べている箇所に鍵があるように、欲望を制御しうる経済が登場することだろう。
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ダーウィンにとって人間本性の本質的な「新しさ」は、生存競争ではなく、また知性でさえなく、他者に配慮する能力だったのだ。自然選択によって姿を現した「われわれの本性の最も高貴な部分」である利他主義や共感力により、われわれは、自然選択の無作為な作用を拒絶しなければならないのである。
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宿業論から言えば、無作為はありえない。そうしていくという決意、誓願しかないのだ。経済の次元では欲望を制御しうる経済を、科学もまた知識欲を制御しうる科学を、教育もまた知恵を利用する教育をである。明るい方へ明るい方へ。
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