楚漢戦争を経て劉邦が高祖として初代皇帝となった漢。A.D.8年に一時的に王莽によって新という国を建てられ簒奪にあいますが、すぐに劉秀(光武帝)によって奪還。この簒奪以前を前漢、以後を後漢として400年続く漢帝国として扱っています。イメージが少し違うでしょうが、三国志の曹操が亡くなるころまでは漢帝国が存続し、ここに含まれるのです。
【漢】B.C.202年~(A.D.8)~A.D.220年
<特徴>
・当初は開国の功臣である異姓の者を諸侯王に報じて広大な地域を治めさせたが、周がそうであったように、禍の種となりつつあったため、同姓の諸侯王に据え替えた。
・その後も同姓の諸侯王の勢力が増し、割拠の恐れがあったが、武帝がその勢力を削ぎ、細分化することで、80年以上にわたって皇室を脅かした諸侯割拠の事態は回避された。
・高祖の妻であった呂氏の専横により一時的に呂氏一族に王朝を乗っ取られる事態が発生。
・文帝や武帝と賢帝が続き、一時的な危機を見事に乗り切り威信を回復。
・武帝の時代の拡大は特に目覚ましく、宿敵であった匈奴を分裂させ、南匈奴を属国にし、西に西域都護府をおいて、シルクロードを開通させた。
・辺境には移民を住まわせ、屯田兵を置き耕地を拡大。
・西域は36の国に分かれ、烏孫と大月氏が最大規模。同盟ならずも西域文化は多く流入。
・軍事的脅威は長城より北の匈奴のみ。南は百越、西南夷がいたが、属国的。
・戦場が北に限定され、戦争は戦車が衰退し、騎馬が重要された。
・牛耕技術の普及。
・鉄器の普及と青銅器の衰退(礼器としての使用に限定)。
・紙や司南(方位磁石)の発明。
・宮廷音楽が俗楽を取り入れて作新。
・私有地を荘園にして勢力を拡大した地方豪族がやがて亡国の因。
・仏教が西域より伝来し、儒教、道教も加えて三つ巴の論争が始まった。
ここでは、やはり仏教伝来に注目したいですね。記録的にはA.D.67年と。
『仏教が中国に伝わった当初、その教義は儒学・道教とは大きな違いがありました。とくに、家と国家に対する観念のちがいがもっとも大きく、
仏教は家を捨て国を離れ、人倫関係の垣根をうち破ることを主張することで、この世の苦難を超越することを求めました。
儒学は家を平穏にし国を治めることを求め、忠と孝を基本道徳としました。
道教は個人が救済されて仙人となることを説きましたが、忠と孝を修行の戒律としていました。
したがって、後漢末に仏教は新しい思潮として社会でめざましく活動し、中国の伝統的な道徳観念に挑戦しました。』
ううん。仏教といってもまだまだ創価学会の思想からは程遠い気がします。小乗から大乗への流れの渦中だったのでしょう。
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