2016年6月9日木曜日

中国文明史 ~秦~

いよいよ秦がB.C.230年から221年の約10年の間に、総数200万を誇る強力な軍隊を東進させ、各国を併呑していきました。戦いによる死者数は万人規模で、例えば、B.C.260年の趙との戦いで40万人の首を捕ったとあるくらい大規模な戦争でした。

始皇帝の権力は絶大で、基本的な制度は、以後2000年にわたり中国の歴史を流れる骨格を形成しましたが、伝えるべき人物を誤ったため、秦という国自体はたった15年の命脈しかありませんでした。


【秦】B.C.221年~B.C.206年

<特徴>
中央集権的な郡県制(48郡)が全国に敷かれた。
・9度にわたり遷都。統一後を含め最終的には咸陽に落ち着いた。
皇帝制度、三公九卿などの官吏制度を設け、血縁は軽視した。
戦争を重視し、軍功によって爵位(20等級)が与えられ、皇族以上の出世が叶う時代。
・軍功によって成り上がった軍功地主の政治が残虐で、最終的には亡国の因。
・各国にあった都市防衛の城壁はなくし、北に匈奴に備えた長城を建設。
(趙と燕にあったものに追加した)
国民皆兵の軍政。
・咸陽を中心として幹線道路、巨大用水路()を建設。
度量衡、車軌、貨幣、文字の統一を進めた。
・焚書坑儒
・武威を示すため5度にわたり始皇帝巡幸。5回目の途中で死亡。
・あらゆる体制を短期間によく整備したものの、趙高という悪名高い臣下に
 後事を託したため、二世の代で滅ぶ。





0 件のコメント:

コメントを投稿