2016年6月8日水曜日

「新・人間革命」13巻 光城の章

広布の理想郷と今では言われる奄美大島であったが、30数年前は違っていた。公明党の候補が立つことへの恐れから、島の有力者たちが結託して学会員への執拗な嫌がらせ、村八分が起こったのだ。そんな中でもけなげに信心の実証を示そうと奮闘する会員の姿があった。秋には芸術祭が方面で開催されていった。



奄美広布にて、

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大聖人様は『末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』と断言していらっしゃる。折伏を行じる私たちをいじめれば、絶対に現証が出るよ。

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“恐れ”は、真実を見る眼を曇らせ、妄想をかき立て、さらに、人間を残酷にする。
その結果、理不尽な学会排斥の呼びかけに、大多数の人たちが同調してしまった。
いわば、村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な反学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。

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みんなが純粋に戦い抜いたから、三障四魔が競い起こってきたことは間違いない。しかし、村の人たちが魔であると、固定的に考えるのは誤りです。魔とは、衆生の心を悩乱させ、善事を妨げ、仏道修行を阻む“働き”のことです。魔は、仏身あ権力者、父母、師匠、妻子など、あらゆる姿を現じて、衆生の心を惑わします。
たとえば、母親が幼い娘を祖母に預けて学会活動に出ようとしたら、娘が行かないでと言って泣いたとする。それでやめてしまえば、魔に負けた姿です。
では、娘さんという存在自体が魔なのか。そうではない。自分にとって魔の“働き”になっただけで、娘さん自体は、魔でも、敵でもない。愛すべき対象です。
人間は、魔の働きをすることもあれば、諸天善神の働きをすることもあります。また、一つの現象が魔となるのか、人間革命への飛躍台になるのかは、自分の一念の問題です。

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大聖人は『我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。自分を迫害した権力者たちを、最初に救おうという、この御境涯に連なれるかどうかです。

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人間は、苦境に負けるのではない。自分自身に負けるんです。自らあきらめ、信念を捨て去り、敗れていくんです。今は、どんなに苦しくとも、広宣流布という最高の目的に生き抜いていくならば、十年後、二十年後には、絶対に花開かないわけがないと、私は断言しておきます。

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インドの独立運動の指導者であったマハトマ・ガンジーは、歴史上、偉大な運動というのは、必ず、五つの段階を経ると語っている。
それは、「無関心」「嘲笑」「非難」「抑圧」「尊敬」の五つである。
そして、「抑圧」にあっても生き残る運動は、必ず成功の異名である「尊敬」を集めると述べ、その秘訣は「誠実」であると結論している。

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芸術祭にて、

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実は、その原理が『異体同心』ということなんです。
世間では、団結というと、よく『一心同体』と言われる。これは、心も体も一体ということであり、心を同じくするだけでなく、行動や形式も同じことを求める。つまり、全体主義となり、どうしても、個性は抑圧されることになる。
それに対して、大聖人は『一心同体』ではなく、『異体同心』と言われた。これは“異体”である個人、また、それぞれの個性や特性の尊重が大前提になっています。

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信心に励むなかで、財産も、地位も、名声も、人間の永遠の幸福を約束するものではないことを学んできた。そして、“自分自身の宿命を転換し、福運をつけなければ、本当の幸福はない。その道は、仏法しかない”と、実感してきた。

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福運をうんとつけて、十年後、二十年後よ見ていてくれたまえと言いたい。今日も家庭訪問・唱題に徹すべし。

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