その一点が、悪魔に対処する方法です。
何の脈略もなく、ふとしたスキにこの悪魔、詳しくは悪魔的感情や思考が自分の中に湧き起こることを感じることがあるなと考えるようになりました。先日紹介した芥川龍之介氏の「あばばばば」にも、主人公をふと襲う悪魔が描かれています。
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女の目はおどおどしている。口もとも無理に微笑している。殊に滑稽に見えたのは鼻もまたつぶつぶ汗をかいている。保吉は女と目を合わせた刹那に突然悪魔の乗り移るのを感じた。この女は云わば含羞草である。一定の刺激を与えさえすれば、必ず彼の思う通りの反応を呈するのに違いない。しかし刺戟は簡単である。じっと顔を見つめても好い。或いは又指先にさわっても好い。女はきっとその刺戟に保吉の暗示を受けとるであろう。受けとった暗示をどうするかは勿論未知の問題である。
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これは、芥川氏がキリスト教に傾倒していたこともあると思いますが、仏教にも悪魔はいます。天魔や鬼神とも言われ、菜根譚はこちらの意味に近い悪魔といえます。根本は他者を自在に操りたい欲望からくるものであり、近いものを感じますね。
さて、「菜根譚」第65条にも、悪魔の登場の仕方が書かれています。
第65条
心が光っていれば暗中にも青空を見、心が曇っていれば日中にも怪物を見る。
第42条
心が堅固で志が一つに集中されていること。
第20条
全ての事柄はいささかのゆとりを残し力を使い果たさない。
第38条
自分の心をまず抑える(制御できる状態にする)こと。
最後に悪魔退治の武器に例えてくれている第125条は痛快です。
第125条
欲心の本体を認識(悪魔を照らす玉)そして忍耐力(悪魔を斬る剣)が必要。
以上、忍耐力が剣というのは中々難しいことではあります。
それでは、認識の方を正確にするために、仏教でいうところの悪魔がどのようなものかを確認しましょう。
仏教で最大の魔は、先ほども触れたように、他者を自在に操ろうとする悦びのうちに潜む「第六天の魔王」です。
そして、魔軍の棟梁たる第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の「大智度論」の中に「欲」「憂愁」「飢渇」「渇愛」「睡眠」「怖畏」「疑悔」「瞋恚」「利養虚称」「自高蔑人」 とあります。
① 「欲」 ・・・自分の欲望に振り回され、心が定まらない。
② 「憂愁」 ・・・心配事や悲しみに心が奪われている。
③ 「飢渇」 ・・・金欠などの飢えと渇きで心が定まらない。
④ 「渇愛」 ・・・眼・耳・鼻・舌・身の五官の悦びに支配され(依存し)、心が定まらない。
⑤ 「睡眠」 ・・・睡魔により心が定まらない。
⑥ 「怖畏」 ・・・周囲の反対等による恐れで心が定まらない。臆病。
⑦ 「疑悔」 ・・・疑いや後悔で心が定まらない。
⑧ 「瞋恚」 ・・・怒り・怨嫉で心が定まらない。
⑨ 「利養虚称」 ・・・名聞名利にとらわれている。
⑩ 「自高蔑人」 ・・・慢心・差別意識にとらわれている。
我が人生の師からの言葉を簡素化する①~⑩のような解釈といえるでしょうか。中々面白いですね。これがそれと場面場面で見破れて耐えることができれば魔は退散するとか。
子供時代のこれを思い出しますね。ビックリマン。悪魔対天使のシール。懐かしいでしょう?この中の悪魔キャラに上の十軍に当たるキャラがいたら覚えやすいかも。
子供の頃、応募しないと当らず、喉から手が出るほどほしかった懸賞アルバム。オークションで入手してしまいました!!
アッ 欲望に振り回されてる?
いや趣味的学問のためですから。
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